ペンと剣の名の下に

卒業式が終わった。

これで正真正銘、本当に卒業だ。

 

長いようで短い6年間だった。沢山の仲間と、沢山泣いて笑った。決して順風満帆であったわけでは無いが、それもある意味で僕らの宿命であり、僕らを成長させてくれる糧となったのだろうと思う。

 

軽くではあるが、僕の開成生活を振り返っていこうと思う。

 

全ての出会いは小5の時の文化祭だ。当時1番と言ってもいいほど仲が良かった小学校の友達(筑駒に進学)に開成の文化祭に誘われた。当時中学受験に何も興味がなく、また土日の少年野球の練習をサボるなんて考えられなかった僕は一度は断った。だが、当日になって奇跡的に雨が降り練習が全て中止になったのだ。せっかくだから、と言って親と一緒に開成の文化祭に行くことにした。

そこで見た景色は僕を一瞬で虜にした。活気に溢れ、生徒みんなが笑っていて、必死にお客さんのことを楽しませようと頑張るその姿は、まさに僕が夢見た理想郷そのものだった。

この学校に入りたい。この先輩方と一緒に暮らしたい。そう思い、中学受験を経て無事入学した。

 

入学してまず取り組んだのはHR参団の副責だった。理由はもちろん小5の文化祭の時の憧れからである。やってみるとそれは困難の連続であった。当時の同じクラスの奴らと馬が合わなかったというのもあるが、とにかく自分の指示や意見を聞いてもらえず、挫折を経験した。自分にはこうして仕切る才能がないのではないかと悩んだ日もあったし、文化祭と関係なくそもそも人間関係がこんなに上手く行かない中、この学校で上手くやれるのか不安に思った日もあった。

そんな時自分の支えとなったのが、先輩と、同じクラスだった僕らの文準委員長のynの存在だ。

運動会での高3の先輩。参団係のHR参団担当の先輩。鉄研や水泳部の先輩。どこをとっても、偉大で尊敬できる先輩方ばかりだった。楽しく雑談にのってくれる彼らのことが大好きだったし、毎日同級生よりも先輩と話したくて学校に行っていた節もあるのも否めない。とにかく、自分にとって先輩方は特別な存在だった。

ynは僕と同じくHR参団の副責だったが、あまり働かなかった正責に代わり企画構想から作業まで立派に参団を率いた。鉄研で一緒だったのもあって僕は彼にずっとべったりだった。彼だけのためにも頑張ろうと思ったし、彼を全力で助けたいと思った。

 

中2の1年間で自教室に居たのはどれほどだっただろうか。春から冬まで毎日のように昼休みには文準ルームなどに行って先輩に絡んでいた。部活終わりに高2の先輩について行って、高2の教室で行われていた麻雀大会に夜19時程まで居たなんて事も何日もあったし、授業時間を含めても同級生といるより先輩といる時間の方が長かったのでは無いだろうか。たまに先輩の教室にずっと居る下級生を見ると心配にも思うものだが、人のことなんて言えた方じゃ無いのだ。

ただ、その中でも中1の頃よりは同級生と仲良くやっていたのも間違いない。中1の頃同じクラスだった奴に頼まれ『Splatoon2同好会』という参団の正責をやったりもしたし(なお当方はSplatoonをやったことがない)、同級生にもそこそこ友達が出来た。かに、きっちー、sayと言った今も仲良くしているメンツと仲良くなったのもこの頃だろう。

 

鉄研の先輩で文準委員長を務めていた先輩に憧れ文準委員長になりたいと思っていた時に、その先輩にオススメされたのがHR参団担当だった。中2の頃から入っていたものの自参団であまり出来ず、中3で本格的にHR参団担当へと足を踏み入れる。それまで後輩というものにてんで興味の無かった自分だが、HR参団担当になるにあたり後輩とどのように接しようかと考えた時に辿り着いたのが、後輩と"仲良く"なるという現在のスタイルである。中1の時のHR参団担当の基本的な印象と言えば、何か上から目線で命令口調というのがあり僕はそれはあまり好きではなかった。だが自分のクラスの担当であり、自分が中3時に参団Cをやっていたその先輩だけは違ったのだ。あくまで中1と同じ目線に立ち、仲良くなりながら一緒に作業をする事でこちらとしても先輩に相談しやすい雰囲気が醸成される。これこそが自分の目指すべき先輩像だと確信した。

HR参団担当として主に5,6,7組、特に6組を重点的に見ていた中でそれは恐らく実行出来たのだろう。文化祭が終わる頃にはこれらの後輩たちと凄く仲良くなり、TwitterやLINEなども交換して積極的に話すようになった。HR参団担当責任者であったタコも僕と同じような考えを持ち、彼がHR参団担当をその時大いに改革したというのも相まってだろうが、HR参団担当下級生と中1がそこまで仲良くなるなんて事は少なくとも僕は聞いたことが無かったし、だいぶ異端的なことだっただろう(今では割とある?)。でもその後の次期総面接にて、本命であった委員長面接の面接官にも『お前はHR参団担当や参団Cの方が向いてるし、なれる力がある』と言ってもらえ、その後の参団係面接でHR参団担当に選んで頂けたあたり、やはりその考えは間違ってなかったと言っていいのだろう。

中3では親友と言える友達が増え、今も変わらぬ同級生の人間関係が構築できた1年でもある。鉄研の奴らと本格的に皆で仲良くなり、ynやかに、say、ももぞーと言った奴らと日常的に遊ぶようにもなった。毎週のようにどこか有名校の文化祭に行っては開成祭や鉄研の将来について語り合ったり、色んなところに遊びに行ったものだ。

yn、かにの2人とは3人で強固な輪が出来た。参団係出身で全員鉄研で仲が良かった3人。中3時のHR参団担当もこの3人で中心となって仕事し、委員長面接にも恨みっこなしでこの3人で出た。余談だが、高2の時に文化祭があそこまで出来たのも、互いの判断を完全に信用できるこの2人と一緒だったから最後まで頑張れたのだろうと思う。

 

高校生となり運動会が忙しくなっても、僕の頭は文化祭一色だった。もちろん運動会も運準組活共に人一倍やっていたし、旅行委員会でも1日丸ごと担当になることもあるくらい中枢でやっていたのも間違いないが、GWには灘の文化祭にyn、かにらと行き、運動会当日のテント待機時にも中1に説明用のパワポを作っている始末。だがあの必死に構想していた期間はとても充実したものだった。

待ちに待った中1,新高たちとの対面。目をキラキラさせた彼らを見てると疲れも飛んだし、とにかく彼らの参団をいいものにしないといけないと一層の励みになったのをよく覚えている。それにしても多くの中1とあの時仲良くなったものだ。今の中3学年にあたる彼らだが、顔と名前が一致していない人も含めれば学年の半分以上は顔見知りだろう。組活で中3Cに名簿を渡されて情報をくれと言われた時には100人程度には何かしらを書くことができた程。彼ら1人1人がどう思っているかはさておき、中3の時に決断した後輩と"仲良く"なる先輩像は大いに達成できたと言っていいだろう。もちろん出来なかったこともいっぱいあるし、諸事情あって今も元4組の一部の奴らには戦犯だの言われるが、これもまた自分の力不足。だが総じて見れば、ある程度上手く行ったHR参団担当だったのだろう。少なくとも自分は彼らとの日々が凄く楽しかったし、今も鮮明に残る記憶である。

 

高1も終わりに差し掛かり、運準旅行だ文準旅行だいってやる気を上げていた矢先、コロナで一斉休校となる。みんな直近の運動会のことを心配し、もちろん演準SCとしてそちらも気にかけて居たが、自分の目下の課題はやはり文化祭だった。顧問や参資総務の皆ともよく話し合い、対応に追われた。運動会の中止が発表された後などはまさに文化祭一色。寝ても覚めても毎日どうすれば文化祭が開催できるか考え、厚労省発表の資料などもよく読んでいた。史上初のオンライン参団説明会をやったのも記憶に新しい。

こうして振り返って考えてみれば、僕の開成生活は6年間ずっと文化祭を軸にして回っていたのだろう。

休校が開けて組活が始まり、僕は組責に立候補した。なんで組責に立候補したのか。運動会のことが好きだったから。誰よりも運動会を知っている自信があったから。自分のクラスで自分以外に適任は居ないと思ったから。全部正しいが、1番の理由は開成の先輩や後輩への感謝への恩返しだったと思う。偉大で自分の憧れだった先輩に貰ったもの、HR参団担当なんかで後輩を教えてる気になって、実は自分が後輩に貰っていたもの達を全部、文化祭より100倍開催が困難であろう運動会を組責としての力で何とか開催・成功させることで恩返しをしたい。そんな思いで組責に立候補し、無事クラスの信任を得ることが出来た。

順調だった文化祭は、11月に入って暗雲が立ち込める。実質的な感染リスクよりも社会的体裁を気にする学校の姿勢には度々反発したし、膨大な時間をかけて作った感染症対策はあとは参団が当日実行さえすれば完璧なはずだった。

最終的にオンライン文化祭となり思っていたものとは全然違ったものになってしまったし、自分も消化不良でしか無かった。だが、やることに意味はあったと思う。最初から完全オンラインに舵を切ることも出来たはずだ。だがその中でも実地開催に拘り続けたのは、意志を引き継ぐためという側面が強い。そして自分の代の文準は、ynかに僕の心が通じ合った3人に加え、目立った不和もなくみんな仕事がとにかく出来る文準総務たちだ。この代が歴代最強文準総務だと強く思うし、この代だからこそ文化祭も前々日まで開催の方向でやれたのだと僕は思う。もしかしたらこの代はそういう宿命を持って生まれた代だったのかもしれない。

 

運動会の対応に関しては今更書くこともない。文化祭と比べてあんな杜撰な対応でよく開催できたなとも思うが、全ては高三400人と運準が総力を結集した結果だろう。

また、我らが緑組は本当にいいクラスだった。8組の中で1番いいクラスなのは間違いないし、こんないい組は見たことがないとすら思うほどだった。本当にいい仲間に恵まれたと思う。実務の経験者がとにかく居ないという点には苦労したが、組内不和なんてものはどの引き継ぎを見るよりも少なく、みんなが向上心と親切心を持った本当にいい仲間達だった。当日2位という結果にも納得である。優勝したかったけどねw  組の後輩たちもいい子たちばっかだった。自分が指導した中1はもとより、他学年の様子を聞いていてもつい笑みが溢れてしまう程、どの学年もいい雰囲気で本当に良かったと思う。中1係の奴ら、中1の奴らもみんな本当に最高だった。みんなが自分の強みを活かし合い、最強の馬鉢が出来たと思う。馬鉢の騎乗偏重論に異を唱え、騎馬の力をフルに使って戦う戦術は、2回戦で騎乗が強い白組に負けてしまったし勝負という意味では強くないのかもしれないが、全員が活躍できる素晴らしい策だったと思う。これこそが馬鉢だと僕は思う。

受験勉強は…まぁ結果出たら書くよ。とにかくもうやりたくない。

 

長くなってしまったが、これが僕の6年間だ。

本当に仲間に恵まれ、機会に恵まれ、開成という場所に恵まれた6年間だった。

勉強なんて高3の運動会終わるまで一切せず、代わりに出来る範囲で生徒活動をやりまくった。キャパの範囲で、ではなく、やりたいことを全部するためのキャパを自分で手に入れる。強引だし自分にしか出来ないタフすぎる選択肢だが、これで良かったと思う。もう少し前から勉強していればもうちょっと楽だったかなと思うこともあるが、そうしたら多分ここまで多くの生徒活動の機会と先輩後輩との輪は出来なかっただろう。自分にはこれしか無かったし、これでこそやはり僕なのだ。最善の選択をしたと今本当に思う。

 

僕にとって開成は文字通り"母校"だ。

開成は僕に居場所をくれた。

開成は僕に生き方を教えてくれた。

開成は僕の帰る場所だった。

開成だからこそ、僕は僕になれた。

 

ペンと剣の名の下に歩んだ6年間を忘れることはないだろう。そしてこの6年間は北極星のように、自分が帰る場所、原点を教えてくれるだろう。

巣立ちの時。この先長い人生を、この6年間を足場にして生きていこう。

 

さようなら、開成

ありがとう、開成