大学を卒業して④

 

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↑前回の記事はこちら

 

はて、前回の更新から1か月が経ってしまった。

予想通りと言えば予想通りではあるのだが、飽き性なのと、まぁそれなりに忙しかったのが祟ってこうなってしまった。

ただ、今回の記事がおよそこの4年間で一番長くなるだろうというのもあって、準備していたのはある。これまでの2年間とは比べ物にならない長文になると思うが、よろしくお願いしたい。

 

4.六年生を持つということ(大学三年生を振り返って)

なにぶん書くことが多い1年がやってきた。

出来事も多かったし、色々な物事が同時並行で動いていた激動の1年である。恐らくあまりにも長くなるので、一言でこの1年間をまとめたいと思う。

 

僕にとってこの1年は、
『自分の大学生活が完成した1年』だったと思う。

 

僕が大学時代をショートに振り返るとして、出てくる要素と言えば、『ポケカ』『謎解き』『塾講師で6年生指導』『教育と経済学』。今挙げた要素の全てはこの大学3年生からスタートしている。

これまでの2年間は、僕の大学生活の長い長い助走期間だったように思う。ここから後半戦、いや、本番のスタート。いわゆる、「始まったな」ってやつである。

 

さて、この振り返りブログで初めての試みにはなるが、今回は中見出しを付けようと思う。なぜって、理由は簡単。分量が非常に多いから。

 

前置きが長くなったが、さぁ行こう。激動の1年の幕開けだ。

 

①幕開け、これまでの仕掛けの一斉スタート

さて、大学3年生編のスタートは、大学2年の冬にさかのぼる。この冬、主に5つの大きな出来事があった。

 

わかりやすいところから行こう。現役合格した大学2年の冬と言えば?もちろん成人式(20歳の集い)だ。成人式と言えば、小・中の友達と久しぶりに会って、感動の再会を~というのが相場だろうか。もちろんそれはあったし、塵尻になった小学校の仲間と再会できたのは純粋によかったと思う。色んな人と話してわかったのは、恐らくうちの小学校の大学学歴の中央値は明治か青山か、ということだ。東大理Ⅲをはじめ、東京一工で10%は超え、旧帝や早慶で上位40%は少なくとも占められる。MARTHの上の方で50%ラインが切られるくらいだった。これはもう、さすが渋谷区立小学校と言わざるを得ない部分だ。それこそ6年生の2月1日は出席率が半分を切っていたような学校だし、そういう星だったとしか言いようがない。

もう一つ、成人式で特筆するとしたら、小学校時代好きだった人に”会えなかった”ことであろうか。僕とある程度親しい人であればわかると思う。あいつだ。僕はこの20歳になるまで結構、そいつに未練を持っていた。彼女以上に僕の理想を体現した存在はないし、今でもそう思っている。ただしかし、小学校の幼馴染はあくまで小学校の話である。成人式でも会わなかったらもう会うことは無いだろう。LINEは確かに知っているが、連絡を取る理由は無いし、変に理由を作って誘うのも、僕の性格的にだいぶ無理よりだ。もちろんこれから何かしらで会うことがあればそれは素直に嬉しいと思うが、自分の中である種の区切りがついたのは間違いない。

 

さて、この成人式(20歳の集い)に行くために東京に行く直前。バイト中に部門長(正式名称は部門長だと思うのだが、以後わかりやすく塾長とする)に呼び出され、来年度の時間割相談があった。開口一番、言われたのは、

『来年度の6年生、首都圏進学コース、やってみるか』。

飛び上がるほど嬉しかった。ここを目指してやってきたのだ。大学1年生編でも書いた通り、そもそもこの塾に来たのは、仙台から東京を目指す子たちの助けになりたい、ということだった。大学2年のときも夏期講習の3,4日間のあいだ6年生を持つことはあったが、それとはわけが違う。

次年度継続希望調査で既にメンツは分かっていたが、総勢13名のうち、半分以上がコンスタントに偏差値60は超える水準。しかも、来年度の6年生といえば、最初僕が赴任したころ4年生で、そのまま持ち上がりで来ていた学年だ。10名は指導歴が1年を超えていて、うち4名は入塾のときの案内もしている。これ以上ない学年だ。

そこから調整を重ねていく中で、自分の役割もはっきりしてきた。
・基本的には6年生全体の責任者の先生(以下T先生)との役割分担で、文系の先生2人も入るが、基本は僕とT先生でのクラス運営。
・デフォルトは僕が算数・T先生が理科と授業を分けるが、お互い算理とも出来るため融通を利かせあう。
・三者面談や保護者会などの保護者対応はT先生が引き受け、表向きにもT先生がクラスの責任者。一方で基本的なそのクラスの進路・カリキュラム等の方針は僕が決め、T先生にOKをもらったうえで、生徒へのアプローチは僕。
といった形だ。僕が東京の様々な学校への知見が広いことや、受験経験者として経験値が多いこと、また生徒とのコミュニケーションが得意なことを評価してもらったうえで、塾としてガバナンスを取っていく意味では、収まるところに収まったと思う。

しかし、自分として責任は重大だし、やれることは塾の要請を凌駕して全てやりたかった。ここで迂闊に書くと労働基準監督署に勤め先が怒られてしまいそうなので深くは触れないが、プリント作成から何から、生活の半分以上を塾と生徒に捧げる日々がスタートする。

 

初の6年生担当にウキウキする傍らで、昨年大学受験生を指導するに至った家庭教師サイトにも動きがあった。新6年生で、武蔵志望の首都圏志望生からの講師依頼があったのだ。一気に6年生の生徒が14名に増え、まさに春が来たような雰囲気。一方で気持ちは引きしまるわけで、僕の教育熱はさらに加速することになる。

1つ前の記事で言った大学受験の子はこの年の2月が受験だったので、春休みにちょうど突入したとはいえ週5でバイト(中受集団×3日、中受カテキョ×1日、大受カテキョ×1日)をしていた。

 

一方で、教育ばかりしていたと言っても語弊がある。
ポケカの大会に初出場したのがこの時期だろう。
元からポケカはやっていたが、基本的にプロキシ(カードの印刷)が中心。というのも、『バトルVIPパス』という当時は1デッキ4枚必須のカードが、1枚5,000円を相場にしており、これだけで20,000円は必須の状態。なかなか学生には手が出なかったのだ。しかし、この2024年1月をもって『バトルVIPパス』はレギュレーション落ち(発売から一定期間経ったカードが大会で使えなくなること)。1デッキを作るための相場が50,000円から20,000円へと急降下し、急に大会に出るハードルが低くなった、というのが主要因である。
初めてのポケカのジムバトルはドキドキで、3戦やって1勝2敗。ここからポケカにめちゃくちゃのめり込むことになる最初のスタートとして文句ないものだった。
使用したデッキは、『青ロストデッキ』と言われる型のデッキで、当時のTier3デッキ。Tier2以上の3デッキは高かったのと、デッキの主要ギミックが自分にとって好きだったのが要因として大きい。なんとなくで握ったデッキだったが、結局この年、次のレギュレーション変更のある2025年1月まで丸1年青ロストと共にするのだから、ある種の運命だったのだろう。

ポケモンサークルでは僕が大学1年の頃からほそぼそとポケカが行われており、僕もそこで楽しんでいたのだが、大学2年の学祭のタイミングでポケサー内でポケカがブレイク。このころには仲間と切磋琢磨する環境が揃っており、ポケカを本格始動する時期としてすごく優れていた。

 

最後の大きな変化は、家を変えたことだ。
これまで住んでいたのは、ドーミーという、あのドーミーインを運営する会社が運営する民間学生寮。食事が付いているなどいい点は多くあったのだが、自分で自炊したいという欲求が出てきたことや、寮という生活の中に一定他人が入り込まざるを得ない環境に少々ストレスを感じて来たことが大きい。

仙台の地図

大学、そして勤め先に行きやすいことは第一条件だった。
大学は最悪雨で行けなくてもいいが、勤め先には雨でも行かなければいけない。自転車である程度通勤通学がしやすいところでありたい。
だいたいの東北大生が住む地区は写真の通り(地区の名前はある程度東北大学生になら通じるであろう範囲の、僕のオリジナル)で、片平と川内の坂の上は自転車が使いにくく、榴ヶ岡まで行くと大学に自転車で行くのが億劫になってくる。かといって文系東北大生の大半が住む八幡地区は、雨の日の職場が行けなさすぎる。
などと四苦八苦した結果、もともとドーミーで住んでいた上杉地区の柏木側から、柏木地区の上杉地区側へと、ほとんど全く移動しない選択肢に落ち着くこととなる。
たとえば西公園地区は迷った立地の1つだが、スーパーがなかなか無いエリアなことに加え、地価が高いためボツになった。

柏木地区の上杉側にした理由として大きいのは、
・自転車でなんでも完結できる
・大学,職場までどちらも自転車で20分ほど
・スーパーに近く、また商店街エリア(西公園地区の仙台駅側)に行きやすい
・新しいカテキョ先が上杉地区で、離れたくなかった
・星陵キャンパス(東北大学病院)にある大学図書館が自習室として使いやすかった
などだろう。ここらへん、本当に住みやすいのに全然東北大生が居なくて寂しかったので、東北大生で家探しをしている人は是非検討してほしい。

ちなみに、ついこの前、自分が住んでいた家の前にクマが鎮座する映像がTwitterで流れてきた気がするが、それは見なかったことにする。

 

まぁ何はともあれ、1,2月だけで既に激動である。やはり激動というのはそれなりに気持ちのいいもので、毎日予定に追われているのはワクワクする。


②プリント作成に追われる日々、と思ったら札幌レッツゴー!!

プリント作成とはなにぶん時間がかかるものだ。基本的には過去問から取ってくるわけだが、適当に過去問を持ってくればそれでいいわけではない。今日の趣旨、全体のカリキュラム・流れを配慮して、ある程度こういう問題が欲しいな、という見当を付けながら問題を探すわけだが、じゃあ例えば、
・旅人算の複数人の問題
・円周上の旅人算みたいな問題で、なるべく周期が登場してほしい
・偏差値60周辺から見つけたい、開成や武蔵は難しすぎる
・せっかくプリントに載せるからには何かしら示唆のあるものでありたい
などと見当をつけたとして、じゃあ今から捜索開始だ!と思っても、四谷過去問データベースを片っ端からたたくしかない。

ある程度、行きつけのサイトみたいなのも駆使したが、A4表裏2枚・計4面のプリントを作るのに6時間くらいかかるなんてザラだったのを覚えている。

毎週二種類のプリントを作成し、その週の予習シリーズ・演習問題集の全問題に目を通し、授業準備をしっかり練ってから授業に向かう。これだけで相当、毎週時間を取られていた。

ただ、辛かったかと言われれば全くウソになる。やりたくてやっているのであって、誰からもやらされていない。むしろこの権利を奪われる方が辛いし、それはもう毎週楽しみながらやっていた。

 

僕の指導の一番核にあるのは、『徹底して生徒の夢・志望校に寄り添うこと』。確かに無茶な目標を掲げてる子はいたし、色々思うことはあったが、それにこちらが意見するのは違う。それこそ自分が、偏差値40代で開成行きたいって言い出す無茶な生徒だったわけだし、当時『この成績から開成は無理です』って保護者面談で言って来た先生は軒並み全員死ぬほど恨んでいたので、当然と言えば当然である。無茶な目標だとしても、その目標達成のために全力を尽くすのがこちらの役目だ。

一方で、志望理由があいまいな生徒には徹底して情報提供然り、志望理由がはっきりするまで詰めていった。文化祭に行ったことがないなら行った方がいいし、校舎を一回も見たことが無いなんてとんでもない。仙台というただでさえ遠い場所からの受験だからこそ、雲の上の存在ではなく、その学校にしっかり生身で触れてほしかった。

 

生徒たちの成績は極めて順調。もちろん全員の成績がすべて著しくいいなんてそんなことは無いが、少なくとも5月までは、それぞれの出来る出来ないは要因がはっきりしており、どうやって成績を上げればいいかもまたハッキリしていた。ただ一点、クラスが非常にうるさい、という大問題はあっても、毎週楽しくやっていたことに変わりはない。

 

春休みのうちに基盤を築き、新学期に突入する頃には余裕が出て来たところで、ポケカのマイページから通知が来る。
『チャンピオンズリーグ札幌 当選』

ポケカの世界には様々大会があるが、そのうち世界大会まで続くいわゆるガチ勢の大会たちを、チャンピオンシップシリーズという。

 年4回参加権があり、毎週末各地域で開催する『シティリーグ』
 年5回、全国各地で開催され、日本一を決める『チャンピオンズリーグ(CL)』
 年のラストに開催し、今年度の日本最強を決める『ジャパンチャンピオンシップス(JCS)』

このうちシティリーグについてはまぁちゃんと応募すれば年4回しっかり出れるのだが、JCSは、シティリーグやCLでの上位入賞者に参加権が与えられ、CLについては抽選になる。

僕はCLに出たいという思いはありつつ、殆ど必ず土曜と重なる(土曜は塾講師が外せない)のが大きなネックになっていたし、たまたま土曜を外れていたとして抽選に当たるか分からないという、ダブルパンチとなっていた。

しかし、GWに開催予定だったCL札幌は土曜を外れており、またわざわざGWの札幌に乗り込める奴なんて多くない、という都合で抽選倍率が低く、当選することが出来たわけだ。

即座に仙台-札幌便を抑えたうえで、札幌に住んでいる北大の先輩に泊めてくれと懇願。札幌行きが決定する。

そうと決まれば練習しかない。毎週ポケサー仲間に付き合ってもらったり、カードショップの大会に参加したり。それなりに強くなって札幌入りし、前日に札幌で参加したカードショップの大会では最終戦負けの3勝1敗で2位とそれなりの成績で、札幌ドームへと突撃した。

 

結果は2勝3敗で敗退(Day1は9戦やって7勝2敗以上でDay2進出となるが、3敗した時点で敗退となる)。

強いアタッカーではなく、相手に強い動きをさせない妨害カードを駆使して戦う『コントロールデッキ』と言われるデッキタイプが苦手なのはわかっていたのだが、シェア率が5%も無いため切っていたら、2回あたって2敗して負けた。

このCLで誇れることがあるとすれば、いまやポケカの有名プレイヤーで5本の指には入るヤマグチヨシユキ選手とあたり、勝ったことだろう。デッキ相性がいいのもあったし、運も良かったかもしれないが、勝ちは勝ち。プレイヤーとしての自信を得ることが出来た。

 

この6月から仙台ポケカ民の強い味方、『ポケ堂 仙台店』が仙台駅前の現在の位置で再オープンしたことも、ここから僕がポケカに激ハマりする1つの要素となる。10月くらいまでは毎日14:00から自主大会を開いていたことで、
  2限まで大学(~12:00)
 →昼食
 →ポケ堂自主大会(14:00~15:45)
 →バイト(16:15頃~)
という黄金ルートが誕生することになる。当時はポケ堂自主大会に来る人も多かったので、本当に素晴らしかった。

 

ちなみに、稼いでもいたはずだし何故かは全然わからないのだが、当時本当にお金が無く、国民健康保険の支払い着服(毎月1日に残高が1万7千円を割っていると引き落としが1か月遅れることを悪用し、クレカがヤバい時は30日に一旦口座から全てのお金を現金に引き上げ、2日に再度入れること)を繰り返していた。この裏技は2か月滞納するともれなく未入金扱いになるので、連続は1回に留めることをオススメする。

日曜に1日ベガルタ関連(J2サッカー)の単発バイトを入れて小金を稼ぐみたいなこともやっていたのに、そんなに金を使った記憶も無いのでもう何が何だかである。

 

そうそう、3年生といえばゼミがはじまるが、僕のゼミ選びはちょっと特殊だった。
というのも、明確にやりたいこととして『教育経済』があったのだが、それをまともに専門として取り扱っている教授はいなかったのである。

教育経済学は凄く定義が広いが、包括すれば「教育にかかわる人の動き全般を見る学問」である。そもそも経済学、というもの自体が決してお金の動きを見るものではなく、人の選好(取捨選択)すべてを考えるものであるわけで、教育という営み全般はこじつけによっては全てこれにあてはまってしまうわけだ。

直感的にわかりやすい、「教育の投資効果」みたいなことから、「私立と公立、どちらがいいか」、「成績とテレビの視聴時間の相関」みたなことまで教育経済であり、まぁすごくざっくり言えば定量的な数字を使って何かを判断し始めたらそれは教育社会学ではなく教育経済学の分野である。その数字がお金でも、テストの点数でも、だ。

日本でこの教育経済学をまともに扱っている研究者は凄く少ない。教育経済学は欧米圏がその最先端で、日本ではResearchmupで”教育経済学”と打つと14人しか出てこないくらいには本当に少ない。教育学(というと基本的に日本では教育社会学にはなるがだいぶその境界はあいまい)を専門にしているひとがこっち側に足を踏み出していることはあるので、それが先行研究になることもあるが基本的にはアメリカを参考にした方がいい。その理由はいろいろあるだろうが、一番は日本人が潜在的に教育を科学にすることへの忌避感を持っているからだろう。ただし、日本で一番有名な社会経済学者といっても過言ではない『中室牧子』さんが教育経済学の第一人者であるわけで、そんなに社会から縁遠い学問でもないとはおもっている。

そういうことで、専門がいない中で頭を切り替えたのは、そういうことをなんとなくさせてくれそうなゼミかどうか、である。要するに自由な研究室だ。それでいて、金融論とか会計学みたいな凄く遠いところでもなく、マクロ経済かミクロ経済かそこらへん、といったらもうだいたい絞れていた。

 

 

③夏休み、地獄であり天国でもある怒涛の日々の幕開け

夏休み、といえばもちろんはじめにくるのは水泳学校である。
当たり前だ。僕は大学4年間、7日×4年=28日のうち、25日に参加している。

ただ、この年は少しイレギュラーであり、夏期講習の開始が凄く早かったので水泳学校前に少しだけ夏期講習がある構図になった。

夏期講習をして、館山行って中一を教えたと思ったらまた帰ってきて、受験生を教える。忙しいは忙しいが、なんとも幸せな時間を堪能していた。7/20から8/8の20日間で17日、塾か水泳学校にいる。こんな素晴らしいことはない。

ちなみに、こいつは期末とか無いのか、とか突っ込みが飛んできそうだが、安心してほしい。3年生にもなると”わかって”くるので、あらかじめ期末の日程を調べ、水泳学校や夏期講習と被りそうならもうその授業を受けないし、基本的には平常点で成績が決まる授業で埋めている。

予定に合わせて水泳学校や夏期講習を調整する?そんなのもっての他。出来る男は、水泳学校や夏期講習に合わせて履修科目を調整するのである。

 

まぁそんなことを言い出すと、塾や水泳部に何かしらの飛び火をしかねないので、再三申し上げると、これは僕がおかしい側面は絶対にある。あくまで自分の意思で、こうしたいからこうしているし、誰からも強制はされていない。

 

それはそうと、前年まで午前か午後だけだった塾の夏期講習は、この年から終日になった。僕のいた塾の場合、小4,5の授業が午前か午後かに寄せられ、もう片一方で小6の授業をやるため、小6を持つようになった=午前も午後もになった、とも捉えられるが、もう一つ要因はある(理由がそれなら、授業コマ数的に昼の数時間だけで良い)。

それは、過去問演習の採点をするようになったことだ。

普通、過去問を解いた後、国語の記述など生徒個人で採点が難しいところは塾に提出をし、採点をしてもらうのが通例である。開成などであれば4教科とも提出していいくらいである。この年の僕のいた塾では僕の方針で、全員夏期講習の間に第一志望の1年分の過去問を解くことにしていたのだが、併せて、解き終わったら全教科分の提出を求めた。

もちろん記述は全採点するし、4教科の得点・失点傾向を全て把握して、様々コメントを書いて返す。パソコンで書くと逆に面倒くさいのでA4の2,3枚手書きでコメントを付けていたと思うが、別にこれも誰からも強制されてはいない。あくまで僕の方針である。

というか、そうでもしないと受からないだろう、というのが見立てであった。志望校対策のコースが充実していて、過去問に留まらない演習が出来る都内と違い、志望校対策の授業を一切開講することの出来ない仙台では、過去問の10年分が唯一その学校っぽい問題演習が出来る機会だ。演習量が十分でないのは分かり切っていて、その学校の傾向を知り切る前に10年分が尽きてしまう。それを回避するためには、徹底して過去問演習の1年あたりの質を高めると共に、なるべく早期に学校の傾向と自身の強化ポイントを把握してもらい、それを常に念頭において平時から問題演習に取り組んでもらうしかない。

それっぽい問題を用意できないなら、早期に”それっぽい”の感度を彼ら自身に高めてもらい、彼ら自身でそれっぽい問題を見繕ってもらうしかない、と、そういうことである。

開成の10年分の傾向

これは、夏期講習開始時に渡した、10年分の算数の出題傾向をまとめたものである。これは2024年当時だし、だいぶ急ピッチで進めたので今思うと難易度表記などは直したいところがたくさんだが、まぁ配った意図としてもそんな厳密なものは求めていないので良しとしよう。(2025年にはまた大きく改定が入る)

意図としては、難易度と出題傾向をある一定相対化させ、問題を解きながら、そういう目で見てもらうこと。具体的には、過去問演習のときには、終わった後それぞれの問題の難易度を照らし合わせ、ある一定の難易をその場で把握すること。一方で各授業のときには、テキスト記載or僕がその場でいう難易度評価を参考に、『これくらいの難易度の問題は解けないといけないんだな』というある程度の物差しを作ってもらうこと。

これらが首都圏で必要とは全く思わない。首都圏では各志望校別の講座でとことん”それっぽい”問題の演習や、各学校の傾向が告げられ、周りには同じ学校を目指すやつがいっぱいいるからある程度相対化される。

一方でここは仙台だ。同じ学校を目指す奴なんて2人いれば多い方だし、そういうことで志望校特訓もない。欠けているものが多すぎる中で目指すのであれば、多少属人的になれど、多少パワープレイになれど、やるしかない。

 

自分でも完璧だったかと言われればそんなことは無いと思うし、ダメ出しを喰らう余地はいくらでもあると思うが、当時はこれが出来る中での最善だと思ってやっていたとしか言わざるを得ない。というか、それくらい、地方になると何もないということである。僕が入る、この前年までは、四谷netに配給されるベーシックインカムをただ履行するのみであり、それ以上のインフラが何もなかったので、こうするのが精いっぱいだった。

一方で、別に塾を責める気にもならない。当時は色々思っていたが、ある程度相対化された今見ると、首都圏と同じ水準を求めるのが間違い過ぎている。ただ、僕が異常値であっただけで、たまたまバイトで変な奴が入ってきたくらいの認識で良い。

もしこの読者にいわゆる地方(3大都市圏でない場所、という意味)から首都圏を目指す人がいるなら、ある程度そういうものだと割り切った上で、バイトだとしても僕みたいな異常値が居るところを何とか探すしかしょうがない。規模の経済が働かない以上、経営判断で言えば切り捨てて当然で、もし地方でそこらへんが充実している塾があるなら、誰かしらがとんでもない量の残業をすることで辛うじて成り立っている、くらいに思った方がいい。

むしろそれに対して怒る親(僕が担当だった時も一定いた)がいるなら、自分の傲慢さを思い知った方がいい。

『同じ金を払っているんだから同じサービスを提供しろ』??????

冗談じゃない。確かにお前は二華を目指す生徒の親と同じくらい金を払っているかもしれないし、もしかしたら奮発して首都圏の親と同じくらい金を払っているかもしれない。一方で立場を変えてみれば、いくらお前が100万出そうが200万だそうが、東京は同じ志望校の生徒だけで毎年100人は居る世界である。1人50万払ったとして5000万だ。
教材準備だとか、そういう生徒数の多寡によらない費用がどれだけかかると思っているんだ。

 

まぁ少々アツくなったが、一方で、僕はその理不尽がなんとも許せなかったのはこれまた事実である。なんとか1段でも上に行って、なるべく土俵の高さの同じ位置で試合をさせてあげたかった。

自分の方針で4教科提出させることにしたが、自分以上に首都圏の採点が出来る人もいないのも事実だった。自分で自分の首を絞めているが、国語の採点を学び、公開情報を調べ、自分が思う首都圏はこうあるはずだ、この学校はたぶんこういう採点のはずだ、といった感性を組み合わせて日々採点していた。

そうするともちろん、一日何時間も採点に使うわけで、もちろんひどい働き方になるわけである。

 

それもこれも自分の判断である。どうしても受からせたかったから、頑張った。ただそれだけのことで、むしろそれだけやらせてくれた塾に感謝である。

 

お盆の時期には合宿とやらにも参加した。自分が小学生の時には自分の塾にはそんなものなかったので凄く新鮮。会社の都合でなぜか僕は泊まりでなく通いになったので、早朝に仙台を出て、深夜に帰ってくる限界生活だったが、それでも楽しかった。

 

一方で、私生活もそれなりに楽しんでいたのもそうである。さっき、20日のうち17日は塾か水泳学校にいたと言ったが、空いてる3日のうち2日はポケカの大会に出ているし、お盆休みもほぼほぼポケカをしていた。

夏休みの後半には塾もなかったので、鉄研同期の8人と共に日本海側を8泊9日で回ったし、久しぶりの鉄研式旅行はなかなかいいものがあった。

 

ときは巻き戻るが、大学2年の学祭であるサークルと出会う。『Retern 0;』。わかりやすく言えば、東北大学謎解きサークルである。いわゆる謎解き興行を愛し、みんなで行き、みんなで作る。そういうサークルである。学祭のときにこのサークルに出会い感動して、そのときからサークルに所属していた。

2024年の夏、このサークルの10周年を祝う講演が開かれ、ここで初めて仕事を請け負う。ポスターを作る(業界用語?でビジュを作るという)仕事だ。

へそくり大作戦

あのくそ忙しい中どこにこんなものを作る余裕があったのかはよくわからないが、まぁそうするとこういう手抜きビジュも出来上がる。見る人が見れば、ああ簡単なつくりだな、と思うし、ただそれなりにちゃんと作った感もある。

ちなみにこのビジュはだいぶ依頼に沿ったもので、コメディタッチのギャグ寄りに作ってくれと言われたし、その他講演趣旨にも沿ったものだ。それなりにいいビジュであったと思う。

 

この10周年イベントでは、イベントの一環として川内萩ホール(大学構内にあるホールで、国際会議なども行われる)を2日間貸切っており、これだけでざっと100万円くらいかかっている。大赤字であり意味が分からないが、その裏側に入れたのは心底いい経験であった。

萩ホール

 

さて、忙しかった8月が終わり、9月は割と穏やかにもなった。予定していたサピックスのインターンにも行き、秋募集に向けてそれなりに就活も始めたくらいだったと思う。インターンでサピの先生に模擬授業をみてもらい、絶賛して頂けたのはすごく自信になった。自分にとってサピの授業は憧れであり、自分の小学生の時に眺めたあの授業を自分なりにアレンジして再現しようとずっと頑張っていたので、何よりの勲章である。

 

 

④進路決定!一方で生徒の進路には暗雲が…

10月に入ってまず訪れた大きなイベントは学祭だ。

学祭で行った僕の役割は大きく2つ。謎解きサークルにおけるポスター制作と、ポケモンサークルにおける学祭責任者である。

軽い方から行こう。謎解きサークルでは、へそくり大作戦に続き学祭でもポスタービジュアルを担当することになる。ただ、結論から言うと、ポスタービジュアルは完成までもって言ったうえで中止になっている。8月の10周年記念イベントから2か月での学祭はなかなか制作スケジュールがハードであり、当初予定されていた3講演のうち1講演のみ開催に決定。残り2講演のうち1講演は11月のイベントに回されたのだが、最後の1つはついに行うことが無く、その講演の担当であった僕のビジュアルは使われずに終わることになった。

せっかくなのでここで供養しておこうと思う。

ドタバタサンタ

へそくりと比べると作業工程はめちゃくちゃ増えているし、それなりの力作だ。

 

一方、ポケモンサークルでは学祭責任者を務めることになっていた。

元々開成時代にそれはそれは文化祭に熱を注いでいた副作用というか、病気というか、やはり学祭になると一過言あり、大っぴらには言わずとも同期の身内には結構、学祭運営全体への不満や、ポケモンサークルの出し物をもっとこうした方がいい、みたいなことを言ってしまっていた。そうしたところ、ポケサー同期から、『じゃあお前に任せた』とのこと。全体の企画全般を引き受けてしまったわけだ。

それまでのポケモンサークルの出し物に僕が感じる不満は以下の通り。
①ポケカではスタートデッキくらいしかまともに貸し出せるものがなく、当時のポケカの醍醐味である大怪獣バトルが全然楽しめない。ガチ対戦は客に自分のデッキを持ってきてもらうありきになってしまっている。
②ゲームでは辛うじてガチ対戦パーティの貸し出しはあるものの、こっちは逆にガチすぎて少しゲームかじったくらいの人にとって楽しめない。
③ただ常設展示があるだけでイベントがなく、企画が単調。

これを解決する手段として、①~③に対応する施策をうつ。

①環境トップデッキをある程度(6種類くらい)揃えたうえで、スタートデッキをそれなりに強くなるくらいに勝手に改造。ガチ-初心者ではなく、ガチ-ルールは分かる-初心者の3段階に出来るように。
②1000匹の全ポケモンを育成。その場で自分の好みの6匹を選んで対戦が出来るコーナーを新設。
③土曜日にポケカ、日曜日にゲームの自主大会を開催。景品で参加者へのインセンティブを付けるとともに、実況解説を付けて会場のお客さんも楽しめるように。

どの施策も、結局のところはポケモンのガチ環境に現在足を踏み入れていない人に一人でも多く足を踏み入れてもらうことを目的にしている。ポケモン昔はやっていたけど今は離れちゃってるという人、ガチ対戦面白そうで一歩を踏み出したいと思っている人。これらにとっての導線になり得る最大限を考えたつもりである。

ちなみに僕は当日は、塾講師で培った口を活かして、司会進行兼実況役をやっていた。2日間朝から晩まで喋っていて本当に疲れたが、反響も大きかったし、達成感はそれは凄いものがあった。

 

こうして学祭は無事終わるわけだが、一方で塾では少々問題が山積していた。

個人情報も混じるので詳細を言うのは控えるが、今まで順調だった生徒たちがここらへんでガクッと成績が落ちてしまったり、進路関係で親と生徒が揉めたり、僕が小6に突っ込み過ぎた結果小5との信頼関係が薄れてきてしまったり、、

正直、学祭の最中も結構こっちのことを考えていた。

 

これまでは保護者面談は、先に決まっている議題に対して僕が方針を決め、T先生が代弁して交渉役となるスタイルを取っていたが、そんな悠長なことが出来る状態でもなくなりつつあったため、このころから信頼関係が出来ている保護者との面談には入るようになる。

 

重ねて問題となったのは、ちょうど秋採用・冬インターンの面接が立て続けに入る時期で、僕自身のスケジュールもめちゃくちゃタイトになっていたことである。

それこそ、現在の勤め先である就職の第一志望の面接は、第3次面接・最終面接ともに志望校決定の保護者面談の日であり、面接の直前3分前に、全然面接と関係ない保護者面談のレジュメを作成していたりしていたので、本当になんで受かったのかよくわからない。

ただ、そのエピソードが物語る通り、当時の僕の基本スタンスは『生徒の一大事において自分の予定はないがしろにして然るべき』であり、もちろん就活をキャンセルまではせずとも、就活よりよっぽど塾を優先する生活であった。

 

解決法については色々考えたが、一貫して言えるのは『対話に拘った』ことだ。生徒、親など、それぞれと1対1で話す機会をなるべく多く作り、相手の表面的な意見の核にある本当の問いにしっかりと訴求する。

元々小6相手の個人面談などは多かったが、スケジュールを組んだり特別呼び出すだけでなく、あくまで雑談ベースに毎日授業の始まる1時間前から1時間後は色んな生徒と徹底して話し合う、そして意識的に1か月以内に1周はするような習慣を作ったことは、この翌年にも関わるいい習慣であったと思う。

 

先ほど少しだけ触れてスルーしたが、塾の片手間で行っていた就活が無事終了した。

第一志望にしていた、現在の就職先に無事合格。日系コンサルティング会社だが、文化に惚れたことに加えて、塾で行っていた『生徒の志望校・やりたいことを全力で汲み、その未来に向けてロードマップを一緒に作って、実行まで徹底してサポートすること』とコンサル(特に弊社)の相性が凄く良かったことが最終的な決め手になった。

特に対策をした覚えもなければ、面接中も心ここにあらず。それでも合格することが出来たのは、それこそ本当に相性が良かったのだろう。

 

 

⑤受験の冬へ

いよいよ受験もクライマックス。10月頃に危機的だった生徒の成績は、冬休みが近づく中で復調していた。その中で自分が取り組んでいたのは、『各第一志望校用の対策プリントの作成』である。

先述の通り、首都圏との大きな違いは日曜志望校別特訓が出来ないこと。それを解決できなくとも差を埋めるために頑張っていたわけだが、1回くらい模擬試験を作ってやりたいなと思ったわけである。

過去10年分の傾向を踏まえ、それとなるべく傾向は似せること。出題サイクル等も考えたうえで難易度を近づけ、最後の方の問題が少し難しいくらいになんとか留めること。そういったことを意識しながら、基本的には過去問(その学校以外を出典)から、どうしても出題したい題材が過去問に見当たらない場合は多少自作して、計8校分を作成した。

クリスマス周辺とかは生徒の過去問提出もピークに近かったため本当に死ぬかと思いながら作成していた。もちろん彼女はいない。大勢の生徒と過ごしていた方がよっぽど幸せである。

 

1月中旬。集団授業のカリキュラムが終わっていく中で、受験直前の生徒2人から、同グループの個別部門で直前までの短い期間やりたいと申し出があったのだが、内容が過去問演習であり、それも最上位層。色々個別部門とも協議を重ね、僕からも希望をした結果、僕が個別部門に出張して授業を行うことになる。

他に出来る先生もいないだろうと確信があったし、何より最後までその子たちの責任を持ちたかった気持ちが大きい。

ただ、自分で希望してとはいえ、その日々は半月ぶり、いやそれ以上に死にそうになっていた。ただでさえ上期に水泳学校を理由に単位を少なく取っていた中、1月中旬から1月最終週にかけてが期末試験。さすがにあんまり日常勉強はしていなかったため基本的に一夜漬け。それに加えて引き受けた個別の授業は毎日3コマとかその域である。(向こうも学校を休んでいたためその代わり的側面もあり、コマ数が増えた。)
家庭教師の先からも授業のコマ数を増やす要請が来ていたため、たまたま試験が無い日も午前中からカテキョ先にいたり。

試験を1から3限めで熟し、終わったらすぐに塾に直行。授業を3つ消化し、帰ってきたら翌日の授業の予習とテストの一夜漬け。1時間だけ寝てテストに向かう。そんな日々だ。文字通り教育に捧げる日々だったと思う。

 

そうこうしているうちに本番である。2月1日は朝に、数人だが生徒と会ったり。

遂に結果は、

 

 

振るわなかった、といった方が正しい表現だろう。
親の第一志望校と子供の第一志望が違ったケースは軒並み、『もし子の第一志望が通った場合はそっちを優先させてあげてください』で通していたのだが、親の第一志望のみが満たされ、子どもの第一志望が満たされないケースが凄く多かった。また、親は第三志望くらいまでのどこかに受かってくれれば、一方で子供は第一志望校しか見ていない、みたいなケースも多かった。

誰一人、親からクレームが来ることはない。12人の親全員が、清々しい表情をしていた。

一方で、過半数の生徒が決して清々しいとは言えない表情をしていた、その表情が今でも忘れられず脳裏にこびりついている。

 

果たしてこんな結果になるなんて、一切の想像をしていない結果であった。

もちろん中学受験はこんなもの。第一志望校に受かる確率なんて30%と言われる、厳しい世界である。

僕自身がその想像をしないようにしていたのもある。『受からないと思って臨んだ奴が受かるわけがない。受かると思って臨んで初めて土俵に立てる』。これは1年を通して、言い方を少しずつ変えながらも一貫して言っていたこと。自分も心から全員が受かると思って臨むことを意識していた。

一方で、成績的・判定的にもこんなに落ちるはずではなかった。

 

塾としては大成功なのだろう。でも、僕はそうは全く思えなかった。

 

そうしてあのブログに繋がる。

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果たして、接し方が本当にわからない。

3月中旬くらいまで、全く立ち直れない日々が続いた。

 

 

3月中旬のある日、最後まで個別でも持っていた生徒がふと、うちの塾に来た。

 

『○○(僕の本名)先生いますか』

『○○先生。△△(彼の第一志望校)生と、戦える模試ありませんか』

 

狐につままれた思いだった。

 

『戦って、絶対に次は勝ちます。受験には落ちちゃったけど、受かる実力はあったこと、次は証明します』

『いやぁ、受かりたかったっすねぇ』

 

そういって明後日の方向を見る彼の顔は、全く後ろ向きなものでは無く、くやしさが入り混じる中に、精一杯全力の勝負が出来たことの清々しさと、輝きを放っていた。

 

 

⑥6年生を持つということ(総括)

僕は6年生を持ったこの一年で、2つ、大きく気づいたことがある。

まず1つ。6年生を持つということは、決して生半可な覚悟では出来ないことだ。よく、『生徒にとっては一世一代の大勝負でも、塾の先生にとっては日常の一幕』なんて言ったりする。それは特に社員にとって一面正しいと思うが、それで生徒が受かると思ったら大間違いである。

特に小学生においては、こちらがいくら演技で着飾ろうと、その熱意は確実に生徒に伝わる。こちらが熱意を持っていれば、やる気のなかった生徒にやる気を持たせることだってできるし、より熱意を引き上げることも出来る。一方で、熱意を持っていなければ、生徒はどこまででも堕落していく。いくら説教したって、正論言ったって、通じるわけがない。小学6年生はそこまで理性的な人間ではない。

ただ厳しいだけではない。心から受験を楽しみ、未来が明るいと思い、生徒の合格を熱望し、そのために努力を惜しまない。そうすれば自然に生徒も受験を楽しみ、その楽しみのまま活力を持って勉強に励む。少なくともこの年の11人、いや、さき取りするが翌年のメンバーを含めても、全員に全く同じことが言える。せいぜいn=30とかかもしれないが、僕は僕自身に向けてそれを証明することが出来た。

 

そしてもう1つ。受験は合否がすべてではないと言うことだ。憧れの学校に向けて全力で準備をし、全力で勝負を挑んだ。結果は落ちたかもしれないが、その過程に狂いはない。むしろその過程にこそ意味があるのだと、この1年の生徒、特にその彼によって、はじめて心から気付いた。

仙台という、ともすれば『東京に住んでたら受かったのに』と思っても仕方のない環境で、全力で勝負が出来たと思わせられたこと。悔しいと思わせられたこと。これだけでもう、1つの意味では成功したと言っていいだろう。

この敗北は凄く自分の中で悔しい思い出だ。一生引きずるだろう。一方で、その誇りも一生忘れないものになった。

 

全力で戦ったからこそ価値がある。彼らによってそれに気づき、彼らと一緒に自分も戦うことができた。

何よりの財産である。

 

それでは次の記事で。

大学を卒業して③

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↑前回の記事はこちら

 

前回は大学一年について書いた。ありがたいことに、200件を超えるアクセスをいただいており、感無量である。そんな大勢の人に見てもらって何か実りがあるような内容があるとは思えないが、、、

別にいいのだが、誰からの感想も無いのに多くのPVが付いているとちょっと不安になるので、DMでコソッとでもいいからコメントをくれると嬉しい。なくても全然いいんだけどね。

今回は、大学二年についてである。

 

3.人生で一番堕落した日々(大学二年生を振り返って)

大学二年を語るにあたって、そういえば大学一年で書き忘れたことがあったのに気が付いた。

何かといえば、そういえば僕は大学一年で英語を2教科も落としていたということだ。

東北大学は英語の2単位科目を卒業までに6科目分取る必要がある。1年前期2科目、1年後期2科目、2年前期2科目である。このうち、1年前期の1科目と1年後期の1科目についてもれなく落としている。

1年前期については担当講師といざこざがあっただとか、言い訳は無くはないが、自分の英弱に起因しているのは言うまでもない。1年後期については言い訳すら一切ない。

大学受験のときにそれっぽい点数は取れるようになっても、やはり根本的な苦手解決にはつながらないのだ。まぁ、それっぽいって言ったって共テリサーチの英語偏差値50超えてないけどね。

大学一年に交じっているわけだからもちろん春にTOEFLも受けさせられるが、430点とかで英検準二級レベルだった覚えがある。高校を卒業してすらいないらしい。

 

なぜこれを書かなければいけないかと言えば、このせいで結構な時間割制約を受けているということ。もっといえば、準必修科目的扱いになっているミクロ経済分析の授業を取れていないことだ。月曜1限のコマが被ってしまい、両取りが出来なかった。
三年生以降で改めて取ろうとも思ったが、二年生の授業に混ざるのが悲しくてやめてしまった。
こうしてミクロ経済学の初級レベルすらわかっていない野郎が爆誕するのである。

はっきり提言するが、はやく東北大学経済学部はミクロ・マクロ経済学の両授業を必修科目にすべきである。そして月曜1限なんていうクソコマからとっとと外すべきだ。そうしないと、僕みたいな、マクロの話と統計学の話は出来るくせにミクロ経済になった瞬間キョトンとしだすアホ経済学部生が爆誕する。勉強する優先順位を履き違えすぎている。

おそらく学部としては、会計学・経営学も含めた生徒のニーズに応じた履修の幅を確保するためにこういった措置にしているとは思うが、体感として、ミクロ経済学をやりたくない経済学部生なんて一人たりともいないので安心してほしい。

 

バイトは2年目になって、慣れを実感するころだった。恐らく集団の塾講バイトを経験したことがある人なら全員が同意してくれると思うが、2周目に入った瞬間一気に楽になるものだ。予習時間も大幅に減るし、授業プランも1回ノートに書いてあるものを去年も反省を踏まえてちょっと改良すれば十分いい授業が出来る。

だし、もっとこうしたらいい、ってのもわかってきた。例えば4年生の算数上巻。第16回で倍数、第17回で約数を習い、第21回にあたる夏期講習1回ではじめて分数の加減乗除が出てくる。この分数の加減乗除で詰まる小学生というのは意外と多いのだが、ここで詰まってしまうと、以降の計算も何もかもがボロボロになり、算数苦手の道に一直線である。そりゃ算数の得意苦手はあれど、中学受験っぽい思考力・文章題で詰まるのと、小学校カリキュラムにもある純粋計算で詰まるのとは話が違う。純粋計算で詰まるのは本意でない。

これを解消する方法として、16回17回をしっかり行うことがある。最小公倍数・最大公約数の概念をしっかり叩き込み、何も考えなくてもパッと出てくるようにする。これだけで、詰まる要因はだいぶ解消される。18回以降での授業でも、本筋と関係ないのは重々承知で最小公倍数・最大公約数の計算問題を毎週30問とかの単位で出し続けたのは、あのクラスの算数の偏差値アップにだいぶ貢献したと思っている。

 

裁量も増えて来た。

大学一年のときは週3勤務がオール本部校。またそれぞれ他の先生とのローテで、自分がこのクラスの理系をすべて持つ、みたいなことはなかった。

一方、大学二年では、4年生の担当として小規模校に出向も、小規模すぎて1クラスしかなく、理系のすべてを自分が持つ格好。また、5年も本部所属生の全員を持っている唯一の人間になってしまったため、保護者面談に向けたヒヤリングなども積極的に受ける形となった。

そうするとどうしても、自分への責任は増えてくるし、ただ楽しんでやっているわけにもいかなくなってくる。5年生でこの頃トラブルが同時多発していたのを1つずつ対処していったり、4年生の成績不振生とちゃんと1対1で話し合ったり。翌年以降に活きた経験はとても多い。

6年生も夏期講習ではじめて持つことになる。集団の授業を持ったのは夏期講習きりだが、この年いた開成受験生の質問対応は、受験までの間、半分くらい自分が受けたりしていた。

 

さて、ここで首都圏の集団塾バイトをやっていた同士の皆さんは思うと思う。なにやら昇格が早くないか?ということ。これは僕が優秀だったとかそういう話では必ずしもない。あんまり内部事情をペラペラしゃべると怒られそうなのでやめておくが、1つ言えることがあるとすれば、当時の部門長だった先生が自分のことを評価し、だいぶ優遇してくれた。ここから2年も、自分でも信じられないスピードで昇格していくが、これだけ好き勝手出来たのはあの部門長の先生のおかげであった。

本当にありがとうございました。

 

大学1年の12月より、塾とは別口で大学受験の生徒を家庭教師で持つようになった。塾から禁止されているのは会社の兼業なので、個人契約なら問題は無い。マッチングティーチャーという個人契約家庭教師斡旋サイトはマジで神なので、みんな使うべきである。会社を通さない分、給与交渉も、何かあった時の揉め事も自己責任だが、一方で中抜きされないとか、指導法を誰かに強制されないのは非常に都合がいい。

大学受験は専門では無いが、自分も直前までやっていたので勝手はわかる。塾より参考書中心で、という生徒の希望があったため自分の大学受験時代の知見も生きたが、一方で、結果的に第一志望に受からせることは出来なかったし、まだ大学受験はよくわからない。

むしろ、中学受験は4年間である程度極めた自信がある(もし疑うならこれ以降の2年分を読んでください)から、こうすれば受かるとか、受かる受からないに留まらない価値の出し方、生徒にアクセルを踏ませる方法などある程度心得ているからこそ、大学受験のそれが余計にわからない。

大学受験の家庭教師を持っていたり、鉄講をしている人は一旦胸に手をあてて、本当に自分は生徒の成績アップに貢献しているのか、合否以上の価値を提供できているか、確認してほしいが、そんな踏み絵みたいなことを始めたら大学受験産業が人不足で詰みゲーになってしまうのでやめよう。もし、知見共有をしてくれる方が居たら頼む。代わりに中学受験の情報を差し出すので。

 

大学四年生編かその後の総括のブログでまた詳しく書くと思うが、教育業に4年間努めて感じた大きな課題の一つが、『如何に教育を大人のオナニーにせず、生徒にとって価値あるものにするか』。教育業は先生・親・生徒という三者の絶妙なトライアングルによって成り立っているが、先生と親の主導権が強いため、往々にしてこの両者によるオナニーになる。先生は生徒に教えた気になって気持ちよくなり、親は娘息子のためにお金出していいことした気になって気持ちよくなる、とまぁそんな感じだ。反論されるだろうが、反論してくる奴ほど気持ちよくなっている層だと思うのでほおっておこうと思う。

もちろん全員がそうだという気はないし、ヤバい奴が目立つだけではあるが、客観的に見てそういう層は一定いるし、それによって収益的にも人員的にも、産業が成り立つ礎になっている側面は否めない。

 

週3でバイトに行き、週1でカテキョをし、さて僕はそれ以外の時間何をしていただろうか。ポケモンサークルも、大学2年のうちはポケカもそんなにやってないし、スカバイも発売して少し立ってそんなにやってないはず。勉強?そんなしたっけな。まぁ大学の授業は欠かさず行っていたとは思うけど。謎解きサークルは入るか入らないかギリギリのタイミングだしな。
全く辻褄が合わないが、時間を浪費していたのはよく覚えている。主にパワプロアプリとYouTubeが悪い。YouTubeはいわずもがなとして、パワプロアプリは大学受験でやめていたのを再開し、しかもなかじお金があって課金できるようになってしまったため、無限に一線級で楽しく遊べるように。あぁあ。

 

一部の人からは、週4でバイトして大学ちゃんと行ってたら、別にそれでいいんじゃない?と言われそうだし、”人生で一番堕落した日々”なんてタイトルを付けるほどではないとも思われるかもわからないが、それは僕の今までの人生に問題がある。僕のこれまでの人生が忙しすぎたのだ。だし、僕は忙しくなってこそ活きる。

 

あんな日々もあったなと思うが、あの日々を二度やりたいとは本当に全く思わない。
次あんな日々を送るのは、80代のおじいちゃんだ。いや、むしろ80代になっても一線級でバリバリ働いていたい。その方が楽しい。

 

そろそろ終わろうか。そういえば、2022年の宇佐美璃沙ちゃんが可愛すぎて炎上したため2023年からミス筑駒は鍵垢運用になるが、その鍵垢運用初回で登場した橘彩葉ちゃんが可愛さで璃沙ちゃんをゆうに超えてくる異常事態が起きた。本当に失敗から学んでほしい。彩羽ちゃんももう大学生なのか、、、やっば、時の流れエグ。

 

それでは次の記事で。

 

↓次の時期

 

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大学を卒業して②

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↑前回の記事はこちら

 

とは言っても、前回の記事は目次が書いてあるのみで概ね何も言っていないので、読む必要は全くない。今回の記事からで十分である。

今回は大学一年生が主題だ。

 

2.仙台の地を踏みしめて(大学一年生を振り返って)

大学一年生について書き始める前に、まずは東北大学への進学経緯を書かなければならない。

東北大学進学の主たる理由は、以下の2つだ。

 ①(入試上の英語の負荷が少なく)理系入試で国立の経済学部に行くため

 ②現役で合格・進学するため

①について。大学受験にあたってまず考えたのは、自分は何が勉強したいか、ということだった。あらゆる教科があった高校時代までとは違う。教養科目はあるとはいえ、基本的に大学では学部の課す科目が学業の全てになる。これまでの人生で好き嫌いがとにかく激しかった自分にとって、どの学部を選ぶかは至上命題だった。

しかし、ここで悩むことは特になかったというのが正直なところである。中3から始まる公民は、あらゆる授業を寝て過ごしていた自分にとっても明確に楽しい教科だった。今でも中3の時に公民の授業担当だった先生からは、
『期末後の成績提出したら、組主任の先生から「ほんとに8で合ってますか!?」って驚愕されて、自分から見たら毎週楽しそうに受けてくれるって印象しかなかったからむしろびっくりしたよ』
などと言われる。それくらいには、公民の授業”だけ”ちゃんと受けていた。

ただしかし問題であったのは、僕があまりにも理系脳であったことである。中学受験時代も算数・理科が得意科目。開成に入ってからも社会(公民以外)・古文・英語で赤点を取り続け、文系で入試を受けるなんて自分から地獄に突撃しているようなものだ。
漠然と国立大学には行きたかったため、以上の条件から既に選択肢は絞られていた。

東大・京大・東北大。まぁ経営学部を除けばだいたいこんなところである。

京大は明確に無しだった。大学が嫌いなわけでは全くないが、理科の配点が存在しない。国+数+英で二次を行うため、古文と英語の苦手が直で来る。数学理科、特に理科で得点を牽引していた自分にとって京大は無理だった。

東大は進振り前提になるが、悪くはない。最初は東大第一志望で、後期で東北大を目指していた。

1月の共通テスト。数学ショックの2022年と言えば有名だが、案の定、術中にはまる。あとから考えれば数学は悪い点数ではなかったが、他人の結果が分からない受験会場での精神的ショックは大きく、その後の理科の点数が壊滅してしまう。今まで偏差値を引っ張っていた理科の壊滅的な点数は、東大への受験を躊躇する理由として十分だった。

東大なら40%。東北大なら99%。過去問の点数から見て合格率を予想。迷った末に頼った先はFaceBook開成会である。自分の現状などを書き、意見を募った。そんなとき、メッセンジャーに来て深夜まで相談に付き合ってくれたのが、OBの某日系大企業副社長の方である。一浪して東大に行った彼だが、結論として彼から出てきたのは、

『開成生が行くような大学なら、どこへ行ったって就活上の大差はない。僕がもしあの時に戻れるなら、東大に拘らず1年はやく社会に出たい。』

だった。もちろん万人にとってそうとは思わない。東大に入れなかった学歴コンプレックスを抱えて堕落してしまう開成生もいるとは聞く。でも、東大に行き、現在社会で大成した彼のその言葉を聞いて、僕が東大を受ける理由はもうなかった。

 

合格を報告しに開成に行った日に、偶然、ある2個下の後輩と会った。彼は小6まで仙台におり、開成入学を機に東京へ引っ越して来た子だ。

東京の大学に進学したらサピックスで教鞭をとるとは元々決めていた。仙台でやらない理由はない。何より、仙台から東京を目指すなんてそんな無茶、全く想像がつかない。でももし、仙台から東京を目指す子が今でもいるなら、何か力になりたいと思った。

後輩に元々通っていた塾を聞いた。俊英四谷大塚。聞けば、仙台ではほぼ独占に近い中学受験塾らしい。ここしかない。東北の地をはじめて踏んだ4/1。もう僕のスマホの画面は、バイト応募画面に飛んでいた。

 あれ??俊英四谷大塚、募集なくない??

想定していなかった事態である。意味が分からない。『集団講師』という募集枠はあるのだが、その募集部門一覧の中に俊英四谷大塚は無いのである。でも、僕のキラキラ塾講師生活にここで終止符を打つわけにいかない。よくわからないが、とにかく集団講師に応募した。とにかく早く結論が欲しい。面接を4/4の枠で申し込んだ。冷静に考えて、仙台民でもない引っ越し民が、大学の入学式より早くバイトの面接に行くなんて頭がおかしい。

 

面接に行き、面接官と目を合わせる。面接官から開口一番出てきた言葉は。

『あっ、君、開成なんだ。実はうちにも中学受験部門があるんだけど、興味ある?』

勝った。僕は何も言っていないのに、向こうから提案してくれた。天の加護か何かである。とはいえ、向こうとしても思いつきベースで、特に社内で打ち合わせたようではないとのこと。とりあえず面接は終わり、担当者と人事側で話すとのことだった。算数・数学のテストではそこそこ難しい問題もあった気がするが満点以外ありえないなという雰囲気。無事、1週間後に担当者から内定の連絡がかかってきて、僕の中学受験塾講師生活は幕を開けた。

 

そうそう、住み始めた仙台はとてもいい街だった。とにかくコンパクトシティで、駅前の商店街に行けばなんでも揃う。広すぎず、狭すぎず。困ることは特にないが、かといって娯楽に溢れているわけでも無い。気候も涼しく、東京ほど乾燥もしていないが次目っとしているわけでも無い。中高で勉強しなさ過ぎた分、勉強欲に満ち溢れていた自分にとって天国のような街である。

仙台に越してきてはじめて出来た友達たちは、開成卒(1個上)・麻布卒・広島育ちなど。今までと同じような雰囲気でありつつ、彼らは割と勉強をよくする。授業を一緒に受け、空きコマで一緒に勉強する、みたいなそんな感じである。今から思えば上に書いた三人は全員院進したし、そういう人種たちだったのだろう。自分の勉強もはかどり、非常に良かった。

4月頭に教習所に入り、7月1日に東京で免許を取得。6月中旬に水泳部OB用事で二級小型船舶免許を取得。同じく6月中旬に簿記三級を取得。一学期の3か月だけで資格を3つ取ったんだから、どれだけちゃんと勉強していることか。中高時代とは比べ物にならない勤勉さである。

 

はじめて東北大に進学したのを後悔しそうになったのは4月中旬。教職免許を取ろうと思ってパラパラ冊子をめくっていたのだが、明記が全くない。検索したところ、東北大の全学部中で経済学部と法学部のみ、何の教職も取れないらしい。

 は??????

薬学部が理科の免許しか取れないのはわかる。農学部も理科の免許しか取れないのもわかる。理学部が社会の免許も取れるのはわからん。なら経済学部に実装しろ。

どうやら、絶対に取れないということでもないらしい。教職の授業のみ、教育学部生として授業を受けるということだ。ただ、これには非常に大きな問題がある。普通、教職では必要な約80単位中、40単位程度を学部の卒業単位と被らせ、計170単位ほど取ることで卒業要件と教職免許要件をどちらも満たす。一方で、教職の授業を教育学部生として受ける場合、もちろん経済学部の卒業単位と被らせることは出来ない。ナチュラルに約210単位取らないといけないということである。

 いや、むりでしょ

先輩に聞けば、毎日5限まで埋めてようやくみたいな感じとのこと。そんなことしてたら塾講師なんて出来るわけない。その選択肢は取れない。

教職が無理なら、この塾講師を4年間で満喫しきるしかない。

こうして、塾講師に4年間を捧げることに決める。

 

塾講師が始まってからの数か月は苦難の連続だった。鳴り物入りで入ったわけだが、授業内容より何より、フィラーの多さでまず指摘される。考えてみれば、高1の参団説明会のときから、『えっと、だけで32回あったよ』とフィラーの回数を数えられる始末。元々フィラーが多い方であったのは間違いない。しかし、これを直すのは非常に難しいのだ。意識して直すしかないのだが、意識してすぐ直るものでもない。

フィラーが徐々に減ってきて、生徒の前に立たせてもらえるようにはなったが、次に指摘が入ったのは、僕の解説の難解さと、授業で扱う問題のレベル設定の高さである。

自分の中学受験で苦労したことが全くなく、また、小6入塾のため小4,小5クラスがどんな感じで進んでいるのかもよくわからない。自分が小6の時に理解した手法を説明しても、それが小4,小5にとってわかりやすい手法なわけがない。それはそうなのだが、それ以外の説明方法も、なんでその説明でわからないのかもよくわからない。ましてやなぜこのグラフを読むだけの理科の問題(今から考えると、それが解けるなら偏差値60は越せる)を、解けない子がこんなに多いのかもわからないし、解説と言われても、グラフを読めとしか言いようがない。

とまぁそんな感じである。今から考えれば、当時の、特に小5だった生徒には申し訳が立たない。自分が担当だったせいで成績が上がらなかった、算数・理科が嫌いになってしまった生徒もいるだろう。情けない限りである。翌年以降になって、だいたいどこら辺まで解けるようになればどれくらいの偏差値が取れるのかが分かってからはこれらは全くなくなったが、当時の生徒には本当に申し訳なかったと思っている。

 

そんなダメダメスタートを切った僕だが、ダメダメな授業ながら、塾側は僕を積極的に教壇に立たせてくれた。夏期講習は殆ど入らなかったものの、秋からは週2の出勤が週3に増え、仙台のゴミゴミ最低賃金(当時853円)でも、月10万は稼げるように。

徐々に勝手もわかってきて、特に4年生とは強い信頼関係を築いていった。

そういえば仙台の規模だと、週2で4年生の算・理を持つと、塾全体の半分以上、自分の在籍校舎の全ての4年生を持つことになる。責任的なプラスの面としても、規模の小ささ的なマイナスの面としても非常に恐ろしい。

 

時は戻るが、4月の新歓の時期、唯一入ったサークルが『とんポケ(とんぺーポケモンサークル)』だった。ポケモンのゲーム版、ソードシールドをこの頃だいぶ遊んでいたのに加え、受験期の息抜きYouTubeでポケカの動画を見て、とにかくポケカがやりたかったのが大きい。ポケカはカードを買うお金が無かったためプロキシ(印刷)だったが、サークル内だと特に問題はなく楽しめた。まさか4年間、しかも後半はだいぶガチでポケカをやることになるとはこの頃は思いもしなかった。

他の部活・サークルは、特に考えなかった。塾を頑張りたかったのに加え、夏は水泳部OBの活動もある。何よりそんなに部活をガチりたいとは思えなかった。

 

水泳部OBとしての活動は、1年目でも結構頑張って行った。

OBになってわかったのは、どうやら水泳学校というものは、社会人OBの有給によって支えられているということだ。

東大・京大・早慶などの主要大学の期末テストが概ね水泳学校と時期が被っており、大学生が来れるような状況ではなく、頼れるのは早く期末が終わる一橋と理科大だけ、みたいなそんな感じ。あとの大半は社会人OBの尽力である。

その点東北大は、期末テストがとっても遅いため、水泳学校を全部終えてから帰ってちょうど期末が始まるころ。一般大学生からしたら早く夏休みをくれと、たまったものでは無いと思うが、自分にとってはとっても都合がよかった。

まずは水泳学校に行き、帰ってきたら期末を熟しつつ塾の夏期講習を頑張る。子供のお世話コンボの鉄壁の布陣だ。いやはや、期末1週間前なんて言葉がどこに行ったのかはよくわからないし、もっと言えば期末の真っ最中もバイトをしている気がするが、そんなことはどうでもいい。そのせいで4年間とも凄惨な落単・C率をたたき出すことになるし、あまりにも酷いGPAになるが、特に後悔はない。元はと言えば大学の期末が、どっちも中受塾的な一番の繁忙期(夏期講習・入試直前)にぶち当たっているのが悪いのだ。

 

季節が夏から動いていない気がするが、これ以上書くことは特にない。マジで僕、冬に何してたんだ、、1年目の冬の記憶が全くないが、まぁそれはそれはつまらない日常を送ったんであろう。なんか1月かそこらへんに起業をした気もするが、黒歴史なので仕舞っておこうと思う。そうそう、2022年と言えば、ミス筑駒の宇佐美璃沙ちゃんは本当に可愛かったし、ポケモンスカーレットバイオレットの主人公・ハルトはショタみが深すぎた。え?どうでもいい?まぁ、そろそろ終わろう。

 

1年目の仙台生活。特に最初の半年は本当に怒涛だった。

小学生並みの感想だけど、本当に楽しかったな。

 

それでは次の記事で。

 

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大学を卒業して

4年間の大学生活が終わった。最後のモラトリアム期間が終わったことになる。

特に何を伝えたいわけでもない。ただ、自分の大学4年間のある種の生きた証として、これを残しておきたい。

あくまで自分のために書いているので、読んでほしいとも特に思わないが、読んでくれたら嬉しくはある。

また、非常に長くなることが確定しているため、細切れに投稿していくことになるし、下手したら夏に突入してしまう。温かい目で見守ってくれると嬉しい。

 

1.目次

 1.目次

 2.仙台の地を踏みしめて(大学一年生を振り返って)

 3.人生で一番堕落した日々(大学二年生を振り返って)

 4.六年生を持つということ(大学三年生を振り返って)

 5.受験業界は厳しい、されど美しい(大学四年生を振り返って)

 6.私は何を残せただろうか(総括)

 

記事が書け次第、徐々に追加していく。

こうご期待!!!!((((((

 

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第一志望に落ちたことが無い人生

4年生から持っていた学年が卒業し、自分が1年間生活の半分以上を費やした12人がそれぞれの道に進んだ。

あるものは第一志望に合格し、あるものは第一志望にご縁が無く、まぁそれなりに上手くいったしそれなりに上手くいかなかったのは当然のことではあるのだが、ここにきてこの1年で一番の大問題が起こってしまった。

第一志望に落ちてしまった子へなんて声をかけていいか全くわからないのである。

 

というのも、今まで僕は第一志望に落ちた経験がないのだ。

自慢ですか?嫌味ですか?当てつけですか?そんな言葉が聞こえてきそうだし、客観的に見て凄く驕った発言だなぁと思うが、深刻に困っているのである。(なるべく批判をさけるため国立二次以前に頑張って書いている)

 

中学受験。半年しか勉強しなかったが、ちゃんと第一志望開成に受かった。

半年ぽっちの勉強で開成に受かるなんてなんて生意気なやつだと今でこそ思うが、受かってしまったのだからしょうがない。

落ちた学校といえば筑駒くらいで、元々受ける動機も「筑駒受かる目標で勉強してたら開成も受かるよね!」というあくまで開成合格を念頭に置いたもの。開成に受かっていた状態の自分には2月5日の筑駒不合格は全く痛くも痒くもなかった。

 

大学受験。直前に東大から東北大に志望校変更はしたものの、元々東北大理系経済後期は受けるつもりだったし、逃げたとは思っていない。東大受けても良かったかなと思うことも無くはないが、本当に東北大に進学してよかったと思うし、全く後悔も無ければ、志望校を変えた当時も凄く前向きな志望校変更だった。

私学を全く受けなかったため、受験校自体が東北大のみ。前期と後期の東北大のみ出願して前期で合格しているから、本当に順風満帆な大学受験であった。

 

就活。夏インターンは概ね落ちたし、早期選考もいくらか落ちた。しかし、せいぜい7社とかしかエントリーもしていないのに3社から早期選考時点で内々定をもらい、第一志望だったところも受かってると来た。志望度の低い企業から落ちていったので、熱意はしっかり伝わるものだなと思いつつ、とにかく全く苦労せずに就活を終えてしまった。

 

と、こうして色々書いていったが、見返して本当に虫唾が走る自慢話の数々である。お見苦しいものを見せてしまい大変申し訳ない。なんとも苦労のない人生を歩んできてしまったわけだが、これが塾講師という職業においてとてつもない致命傷なのだ。

 

2月3日。カテキョをやっていた子から電話が来た。第一志望校にご縁が無かったこと、もう明日の試験に向かう勇気がないこと、泣きながらもしっかりと自分の気持ちを報告してくれた。

近くにいたのでとにかく会おうと、会うことにして、会って2,3時間しっかり話した。

明日の試験を受けなくて後悔しないか。

繰り上げの電話が来ないとは限らない。

今日の第二志望は絶対受かってるよ。

落ちた悔しさは落ちた子にしか分からない。

その悔しさを感じたことがある者にしかない強さがある。

受からせてあげあれなくてごめん。○○くんは誰より頑張ったよ。

 

すべてが自分にブーメランとして帰ってくるようだった。自分にはその強さが無いと自白しているわけなんだからしょうがない。しかも自分にはその強さなるものが本当にあるのかもわからない。

 

色んな言葉をかけたが、結局何が正解だったのか、何が間違いだったのかわからない。

自分は同じ立場になったことがないから、わからない。

そのときどんな言葉をかけてもらいたいのか、どんな言葉をかけてほしくないのか、どれだけ想像したって、わからない。

勉強のことなら、生徒のことなら、塾の業務で出会うあらゆることなら、後輩のあらゆる相談事項なら、全く同じ境遇ではなくても、自分が経験したことがないことでも、誰よりその子の心情をしっかり読み取ることが出来ると自負している。どの先生より、どの先輩より、僕は年下の子の本心を感じ取るのが得意だと思っている。

あの子は多分本心ではこうしたいのだろう。あの子は深層心理でこういうところに苦手意識があるのだろう。僕がこう動けば、彼らの意思を支えられるだろう。

塾のこれらで、おおむね外したことがない。あらゆる発言、一挙手一投足、すべてに神経を張り巡らしている。常勤と読みが違うことがあっても、ほとんどの場合自分の読みが当たる。そこには自信がある。

 

しかし、第一志望に落ちてしまった、その目の前の子が何を考えているのか、どうしてほしいと思っているのか、全く分からない。

今までと何が違うというのだろう。自分が経験したことの無い悩みなんていくらでも解決してきた。そもそも、算数も理科も自分は困ったことがないのだ。それでいて躓いた子それぞれの本質的にわかっていないところを1つ1つ読み取り、解決してきた。

 

仙台に帰ってから、同じく第一志望に残念ながら縁がなかった子とそれぞれ会話した。自分は笑顔でいた方がいいのか、申し訳なさそうにした方がいいのか。第二、第三志望に受かったことをほめた方がいいのか。第一志望の当日どんなだったか聞いた方がいいのか。ねぎらうべきか。謝るべきか。

自分の本心としては、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。受かったら本人の努力、落ちたら先生の責任。心の底からそう思う。なぜ受からせてあげられなかった。あと1点上げてあげることが出来たんじゃないのか。2月3日からの数日で1年間のすべてを振り返ったし、反省も後悔もたくさんした。

でも、それを素直に見せることが正しいのではないのではないか。

先生には笑顔でいてほしいものではないのか。

落ちはしたけどどれだけしょうがなかったか、言い訳したいのじゃないか。

もう聞かないでほしいのではないか。

開成卒の先生と思って、ここを目指して、と思っていたわけだから、僕の姿を見るだけで悔しくなってしまうのだとしたら、もう僕は姿を見せない方がいいのじゃなか。

最後に思いっきり、ねぎらってほしいのじゃないか。

 

色々考えた。どれも間違いだとは思わないが、一方でどれも正解だとも思えない。

確証が無い。ほんとなら彼らと少しずつコミュニケーションを重ねて全てを読み取りたいが、残念ながら卒塾後の先生と生徒にはそんな時間はない。

今までどおり会ってファーストインプレッションで読み取ればいいのではないか、という楽観的な見方は、3日のカテキョの子で既に崩れていた。だし、ちゃんと塾の子もわからなかった。

 

地方塾ならでは。1年間、心のすべてを通じ合わせ、得意も苦手も、性格も、好きな食べ物も、お互いに知り尽くした関係は、受験の終了とともにパッと幕を閉じる。

第一志望に合格した子たちは快く送り出せた。東京でも頑張れよ。東京の道ですれ違ったら声かけるからね。

そんな冗談も交えつつ、全く悔いなく今生の別れを告げることが出来た。

 

しかし、合格できなかった子たちとは、自分が彼らの心情を全く理解できないために、満足のいく別れの挨拶をすることが出来なかった。

なんて声をかけるべきだっただろうか。

彼らはなんて声をかけてほしかったんだろうか。

それが今、頭をぐるぐる回って離れない。塾講師はそんな1人1人の生徒に感情移入しては務まらない。それはそうなのだとも思うが、自分にとってはかけがえのない、自分より大事な他者なのだ。塾に不審者が入ってきて、自分が身を挺して彼らを守ることが出来るのなら、命のひとつやふたつ惜しくはない。それは業務上の責任とは全く無関係の、人としての問題だ。

幼馴染が転校するとなって、今生の別れを告げるなんて30分アニメ3話くらい使える。

でも、自分にとっては全く別の話とは思えない。LINEもTwitterも繋がっていないし、学校の先生みたいに生徒側からならすぐ予後がたどれるわけでも無い。自分自身が来年でもう塾業界から足を洗うのだから、しょうがない。

もちろん業務上の関係だが、それ以上に人と人との関係だ。こんなに100%気持ちを理解しようと努めてきた相手との別れが、全く気持ちが理解できない後悔しかないそんな別れでいいわけがない。

でも、自分にはどうしたってこれを解決することはできないのだ。

 

なんて恵まれた人生を送ってきてしまったのだろう。

いや、実は恵まれていないのかもしれない。

それすらもわからない。

 

来年度は、全員第一志望に受からせる。

それがどれだけ難しいことか。合格率60%、70%でも簡単に落ちてしまうことは今年痛いほど知った。でも、これしか解決する道はないのだ。

 

塾講師として最後の1年間。大学の授業もほとんどない。

精一杯やりきろう。

〜経済学部1年生による〜 よくわかる日銀為替介入

※高校倫政と経済学部1年科目を履修したくらいなので、理解が足りて無い部分があったらごめんなさい

 


 1. アメリカのインフレを抑えよう
2022年4月ごろより、史上稀に見る大幅な円安ドル高(1ドル買うのに必要な円が増える状態)が続いていました。

 


米国において異常なインフレ(≒物の値段上昇)が続いている中で、米国は今年3月に政策金利の利上げを発表しました。米国ドルの政策金利が上がるということは即ち、米国ドルを銀行に預けた場合に、預金残高が1年で増える割合が上がるということです。

政策金利を上げることで、企業等がお金を使うのではなく預ける方向に移行することで、物に対する需要を減らし、需要過多によるインフレを抑制することに繋がることを期待するものでした。

 

 

 

 2. 円安ドル高の大幅進行
さて、日本の政策金利は現在ほぼゼロに近い、つまり日本円でお金を持っていても、何年経ってもお金の額面はほぼ増えないわけです。逆に米国ドルの金利が上がったことで、米国ドルでお金を持っておけばその額面は銀行に預けているだけで簡単に増える。もちろんみんな貯金を米国ドルに変換したいと思いますよね?

 


円から米国ドルにお金を変える動きが大きくなったことで、米国ドルの世界における価値が上がります。逆に日本円でお金を持っておく意味が下がるため、日本円の価値は下がる。その結果として、価値が低い日本円で価値の高いドルを買うためには、たくさんの日本円が必要となるわけです。

 


アメリカのインフレが止まらず、この9月にアメリカは今年3月から数えて3回目の利上げを発表しました。先程の理由により、ドルの価値は上がり円の価値が下がる状態が続き、3月時点で1ドル=115円だったドル円相場は、本日昼に1ドル=145円まで上昇していました。

 

 

 

 3. 日本経済大打撃
この状態が日本経済にもたらしたのは、輸入品の大幅な値上がりです。もちろん海外の業者からしたら、ドルで見た時の同じ額面でものを売りたいわけですから、1ドルあたりの日本円の額が上がるほど物の額面は増えるわけです。

消費者目線でわかりやすいところで言えば、iPhone14の値段が13と比べてめちゃくちゃ上がってたり、ガソリン代の値上がりだったり、この前Appleが発表したApple Storeの値上げだったり。とにかく海外の会社が作ったものは軒並み値上がりしています。

 


企業も大ピンチです。日本の大企業で今生産拠点も材料も全て日本産なんて企業はほぼ存在しないわけで、それらのコストが軒並み値上がりしています。海外メーカーの物と比べたら生優しいものではあるかもですが、日本メーカーの商品も最近軒並み値上がりしてますよね。そういうことです。

 


さて、円安になって日本が儲かることって無いの?って思った人、いると思います。日本人でドルで資産を持ってた人はもちろん、外国人からしたら円にお金を変えれば額面が増えるわけです。いっぱい物を買ってもらえそう。また、日本で作った製品が海外で売れたことで得られる日本円での額面が増えます。ドルで同じ額で売っても日本円での額面が増えてるんですからウハウハです。

でも、ここで出てくるのが『産業の空洞化』と『コロナ禍』です。コロナ禍さえ無ければ、海外のお金持ちがこぞって日本でお金を使おうとするでしょう。同じ家電製品を買うにも日本で買ったほうが安くなるだろうし、海外旅行がしたいなら日本でするのはめちゃくちゃお得です。ただもちろん現在、海外からの観光客なんて日本に入って来ないわけで、それが無い。

産業の空洞化とは、日本の大企業が生産拠点やそこで働く従業員を海外に移転したことにより日本の雇用が喪失したことを指す言葉ですが、日本は長らくこれが続き、日本の大企業の生産拠点はその殆どが海外。つまり、海外に高値で売れるかもしれないが、その物を作るためのコストも高くなってる。ということで利益はあんまり増えていないと。逆に日本で売る商品はそこまで値上げできないわけですから、生産コストが上がってるだけかもしれません。

そういうことで、現在は円安の利益をめちゃくちゃ受けにくい環境であるわけです。

 

 

 

 4. 日本銀行(≒日本政府)による円ドル為替介入
そういうことで、日本が現在進行形で大ダメージを負っている大元たる円ドル為替に対し、日本銀行が今日為替介入を行いました。保有しているドルを円に変えることで、市場の流れと逆行させ、ドル円相場を元の値に戻す方向に動かしたということ。

これにより、1ドル=145円まで上昇していたドル円相場は、一気に1ドル=140円まで下落しました。

 


ただこの為替介入、行われることは無いのではないかというのが市場の予測でした。為替市場への介入は本来の市場経済に逆行する行為であるため、不景気を呼び込みます。またこの米ドル金利上昇によるドル高の動きは決して日本に限った話ではなく世界全体の動きであるため、世界第3位のGDPを誇る大先進国日本が為替介入を行うことで世界の中堅国家がこれに追付いする可能性が極めて高いからです。

 


『最後の日米協調介入』と言われた1998年以降、円買いドル売り介入は初めてのことです。ドル買い円売り介入は2011年に行われていますが、東日本大震災の中での異常な円高進行で日本経済への打撃が深刻化されることを恐れるものであったため、世界各国からは理解を示されました。

 


今回の為替介入に世界がどう反応するのか、為替介入後の円ドル相場はどう動いていくのか、注目していきましょう。

HR参団と僕(卒業文集掲載文)

迷ったんですが、せっかく書いたしまぁ公開するかということで公開することにしました。

昨日公開した卒業にあたっての記事とだいぶ被るところはありますがご容赦を。

老害じゃん、というコメントは受け付けておりません。そもそも同級生しか読むことを前提にしてない…

※個人情報保護の観点より内容を一部改変しています

 

 

 

この開成生活において、HR参団という存在ほど僕に影響を与えた存在はない。せっかくの機会であるから、僕にとってのHR参団という存在について書いていこうと思う。


そもそも、この学校に来るきっかけをくれたのもHR参団だった。

僕がHR参団と出会ったのは、小学5年生の時に来た143rd開成祭でのことである。この143rd文化祭は、僕が開成学園を目指すきっかけとなった文化祭である。小学校の友人に誘われて何も知らないまま来たこの文化祭は、僕にとって衝撃の連続だった。出し物全てがクオリティが高く、生徒皆が躍動し活気に溢れているこの学校の文化祭は僕にとって最高の場所であった。当時はあまり意識してなかったのであるが、そこで僕が1番楽しんで居たのが後から思うとHR参団なのである。参団グランプリHR参団部門1位金の匙と言えば分かる人も多いのではないだろうか。熱のこもった勧誘から始まり、清々しく分け隔てない接客をしているお兄さんたちは当時の僕にはとても眩しく見えたものだ。


自分で参団を創り上げ、接客し、人を楽しませることの楽しみを知ったのもHR参団だった。

中1としてのHR参団。僕は自ら立候補し、演説と選挙を経て1年1組の副責任者としてHR参団をした。昔から仕切るのは好きであったが得意とは言い難かったあの頃、もちろん上手く行かなかったことの方が多かった。クラスの人たちとは度々対立したし、そもそも作業に全然人が来なかったものだ。そんな時にいつも隣に居て一緒に作業してたのが、この後5年間文準を共にするynである。同じ鉄研部員だったこともあって仲が良く、同じく副責だった矢野に着いていく形で毎日一緒に作業をした。今でこそ誰もが認めるプロジェクトリーダーのプロだが、あの頃からそれは健在。憧れすら抱いていた。そうして彼と一緒に作業を積み重ね、文化祭当日を迎える。1組は145thで3つしかなかったお化け屋敷参団というのもあり、参団グランプリこそ取れなかったものの大盛況だった。作ったのも脅かしてるのも中1の僕らなのに、大人から子供までがみんな怖がって楽しんでくれた。自分たちが作ったものを楽しんでくれているその顔を見るのがこんなに嬉しいなんて思っても見ただろうか。僕はそのとき初めて、人を楽しませることの楽しさを知った。この時の経験は僕の今後の開成生活の原点になったと言っても過言ではない。


後輩との付き合い方を教えてくれたのもHR参団だった。

鉄研の先輩に、147th文化祭の文準委員長の方が居り、その先輩に、僕も委員長になりたい!と言ったところ勧められたのがHR参団担当であった。中3の時に委員長になりたくて入ったHR参団担当。その頃は先輩とばっか仲が良く、後輩とはそもそもあんまり関わってなかったし関わり方も知らなかった。HR参団担当になるにあたってどんな先輩になりたいかと考えた時に思い浮かべたのが、自分が中1の時にHR参団担当だった中3の先輩。先輩らしくどっしり構えてあれこれ指示を出していたHR参団担当責任者の方とは対照的に、彼は中1の僕らと同じ目線で雑談もし、一緒に作業をしながら色々なことを教えてくれた。親身に寄り添い、雑談の中での相談事にも快く乗ってくれる彼に僕は凄く憧れた。上の立場として接することで下級生に指導を聞いてもらうのではなく、下級生と同じ目線に立って仲良くなることで、相談もしてもらいやすくなり、指導も聞いてもられる、そんな先輩になろうと思ったのである。初めこそ世代間の格差もありなかなか仲良くなれなかったし、自分も手探りであったが、毎日HR参団担当として中1と接してるうちにだんだんと仲良くなり、徐々にではあるが自分の目指した自分になれている気がした。結果的に9月・前当日の担当であったM1-6のクラスの大半や、隣のM1-5,1-7の一部とも仲良くなって信頼関係を築くことが出来、当日も成功を納められたという意味で僕の目標はある程度達成出来たとおもう。それに加え後輩と接し指導する過程で、後輩指導そのものに対してしっかり向き合い、今どうこの後輩に指導をするべきか、注意するべきか放っておくべきかなどの、基本的な後輩指導の考え方も学んだように思う。


プロジェクト実現のやり方、進め方などを学んだのもHR参団だった。

高1でなったHR参団担当の責任者。自分にとってはじめての1つの組織の長であったし、また中1新高400人を取りまとめる長とあって、その責任は重大であった。前年度に行われたHR参団の改革を引き継ぎ拡大していくという基本方針の元、中1新高の先生との打ち合わせから始まり中1やHR参団担当下級生の教育まであらゆる業務を遂行した。もちろん全てが最初の構想通りに上手くいったわけではない。時に先生方との交渉がうまくいかずやりたいことができなかったり、自分の不手際で中1に迷惑をかけることもあった。ただそこで得られたのは、確かなプロジェクト推進のための技術であると思う。先生方と多く話すことによって、学校の責任者たる彼らが何を考え何を重視しているか、そしてどうすればこちらの交渉に応じてくれるかなどを考え実行した経験は、もちろんこれ以降の開成生活で大きく活きたし、必ずや今後の糧になるだろう。自分でプロジェクトを組み多くの人を動かして実行するということがいかに大変か。そしてその中で必死に頑張った経験は何にも変え難いものであるし、先輩から後輩まで皆を動かすという意味で参団Cや組責とも全然違う貴重な経験であった。

 

さて、ここまで自分とHR参団との思い出を書いてきたが、僕は、HR参団は最高の人づくりの場であると思う。

中1にとってHR参団とは1つの大きな試練である。大人の手を借りず、先輩は居ても基本的には自分達の力で1つの参団をクラスみんなで創り上げなければならない。多くの者にとって初めての経験であるだろう。時にケンカし、時に労い合いながら参団の成功に向かってクラス一丸となって努力する経験はその後の開成生活において大きな意味を持つ。開成生は中1の運動会をやって初めて開成生となるとはよく言われた話であるが、HR参団も同じような位置づけにあるように思う。HR参団担当として沢山の中1を見てきたが、6月にはまだ全然子供であった中1が9月には見違えるほどぐんと逞しく成長している姿はとても誇らしいものだ。

またHR参団担当にとっても凄く大きな成長の場であることは言うまでもないだろう。中2や中3のHR参団担当にとって中1はとても距離感が難しい存在である。中1の1クラス44人を目の前にして、どう振る舞い、彼らをどう教え導くか。運動会や部活、他組織とは違い中1のサポートと教育のためだけに組織されたHR参団担当だからこそ、手を抜くわけにはいかない。正攻法も正解もない中で、"教え育む"ことに真正面から向き合うHR参団担当は、まさに自分自身も大きく成長させてくれる場である。


僕はHR参団と出会い、HR参団を通じて本当に多くのものを学ぶことが出来た。HR参団がなかったら今の僕は絶対になかったと思う。心から感謝したい。

これから先、まだまだ沢山の人がHR参団に関わるだろう。彼らはHR参団を通じて何を思うだろうか。HR参団は彼らをどう成長させるだろうか。僕の6年間の開成生活の礎となったHR参団の今後のますますの発展を祈り、僕も筆を置こうと思う。

 


HR参団、そして開成学園

6年間本当にありがとうございました。