auspicious-wind-villa.hatenablog.com
↑前回の記事はこちら
はて、前回の更新から1か月が経ってしまった。
予想通りと言えば予想通りではあるのだが、飽き性なのと、まぁそれなりに忙しかったのが祟ってこうなってしまった。
ただ、今回の記事がおよそこの4年間で一番長くなるだろうというのもあって、準備していたのはある。これまでの2年間とは比べ物にならない長文になると思うが、よろしくお願いしたい。
4.六年生を持つということ(大学三年生を振り返って)
なにぶん書くことが多い1年がやってきた。
出来事も多かったし、色々な物事が同時並行で動いていた激動の1年である。恐らくあまりにも長くなるので、一言でこの1年間をまとめたいと思う。
僕にとってこの1年は、
『自分の大学生活が完成した1年』だったと思う。
僕が大学時代をショートに振り返るとして、出てくる要素と言えば、『ポケカ』『謎解き』『塾講師で6年生指導』『教育と経済学』。今挙げた要素の全てはこの大学3年生からスタートしている。
これまでの2年間は、僕の大学生活の長い長い助走期間だったように思う。ここから後半戦、いや、本番のスタート。いわゆる、「始まったな」ってやつである。
さて、この振り返りブログで初めての試みにはなるが、今回は中見出しを付けようと思う。なぜって、理由は簡単。分量が非常に多いから。
前置きが長くなったが、さぁ行こう。激動の1年の幕開けだ。
①幕開け、これまでの仕掛けの一斉スタート
さて、大学3年生編のスタートは、大学2年の冬にさかのぼる。この冬、主に5つの大きな出来事があった。
わかりやすいところから行こう。現役合格した大学2年の冬と言えば?もちろん成人式(20歳の集い)だ。成人式と言えば、小・中の友達と久しぶりに会って、感動の再会を~というのが相場だろうか。もちろんそれはあったし、塵尻になった小学校の仲間と再会できたのは純粋によかったと思う。色んな人と話してわかったのは、恐らくうちの小学校の大学学歴の中央値は明治か青山か、ということだ。東大理Ⅲをはじめ、東京一工で10%は超え、旧帝や早慶で上位40%は少なくとも占められる。MARTHの上の方で50%ラインが切られるくらいだった。これはもう、さすが渋谷区立小学校と言わざるを得ない部分だ。それこそ6年生の2月1日は出席率が半分を切っていたような学校だし、そういう星だったとしか言いようがない。
もう一つ、成人式で特筆するとしたら、小学校時代好きだった人に”会えなかった”ことであろうか。僕とある程度親しい人であればわかると思う。あいつだ。僕はこの20歳になるまで結構、そいつに未練を持っていた。彼女以上に僕の理想を体現した存在はないし、今でもそう思っている。ただしかし、小学校の幼馴染はあくまで小学校の話である。成人式でも会わなかったらもう会うことは無いだろう。LINEは確かに知っているが、連絡を取る理由は無いし、変に理由を作って誘うのも、僕の性格的にだいぶ無理よりだ。もちろんこれから何かしらで会うことがあればそれは素直に嬉しいと思うが、自分の中である種の区切りがついたのは間違いない。
さて、この成人式(20歳の集い)に行くために東京に行く直前。バイト中に部門長(正式名称は部門長だと思うのだが、以後わかりやすく塾長とする)に呼び出され、来年度の時間割相談があった。開口一番、言われたのは、
『来年度の6年生、首都圏進学コース、やってみるか』。
飛び上がるほど嬉しかった。ここを目指してやってきたのだ。大学1年生編でも書いた通り、そもそもこの塾に来たのは、仙台から東京を目指す子たちの助けになりたい、ということだった。大学2年のときも夏期講習の3,4日間のあいだ6年生を持つことはあったが、それとはわけが違う。
次年度継続希望調査で既にメンツは分かっていたが、総勢13名のうち、半分以上がコンスタントに偏差値60は超える水準。しかも、来年度の6年生といえば、最初僕が赴任したころ4年生で、そのまま持ち上がりで来ていた学年だ。10名は指導歴が1年を超えていて、うち4名は入塾のときの案内もしている。これ以上ない学年だ。
そこから調整を重ねていく中で、自分の役割もはっきりしてきた。
・基本的には6年生全体の責任者の先生(以下T先生)との役割分担で、文系の先生2人も入るが、基本は僕とT先生でのクラス運営。
・デフォルトは僕が算数・T先生が理科と授業を分けるが、お互い算理とも出来るため融通を利かせあう。
・三者面談や保護者会などの保護者対応はT先生が引き受け、表向きにもT先生がクラスの責任者。一方で基本的なそのクラスの進路・カリキュラム等の方針は僕が決め、T先生にOKをもらったうえで、生徒へのアプローチは僕。
といった形だ。僕が東京の様々な学校への知見が広いことや、受験経験者として経験値が多いこと、また生徒とのコミュニケーションが得意なことを評価してもらったうえで、塾としてガバナンスを取っていく意味では、収まるところに収まったと思う。
しかし、自分として責任は重大だし、やれることは塾の要請を凌駕して全てやりたかった。ここで迂闊に書くと労働基準監督署に勤め先が怒られてしまいそうなので深くは触れないが、プリント作成から何から、生活の半分以上を塾と生徒に捧げる日々がスタートする。
初の6年生担当にウキウキする傍らで、昨年大学受験生を指導するに至った家庭教師サイトにも動きがあった。新6年生で、武蔵志望の首都圏志望生からの講師依頼があったのだ。一気に6年生の生徒が14名に増え、まさに春が来たような雰囲気。一方で気持ちは引きしまるわけで、僕の教育熱はさらに加速することになる。
1つ前の記事で言った大学受験の子はこの年の2月が受験だったので、春休みにちょうど突入したとはいえ週5でバイト(中受集団×3日、中受カテキョ×1日、大受カテキョ×1日)をしていた。
一方で、教育ばかりしていたと言っても語弊がある。
ポケカの大会に初出場したのがこの時期だろう。
元からポケカはやっていたが、基本的にプロキシ(カードの印刷)が中心。というのも、『バトルVIPパス』という当時は1デッキ4枚必須のカードが、1枚5,000円を相場にしており、これだけで20,000円は必須の状態。なかなか学生には手が出なかったのだ。しかし、この2024年1月をもって『バトルVIPパス』はレギュレーション落ち(発売から一定期間経ったカードが大会で使えなくなること)。1デッキを作るための相場が50,000円から20,000円へと急降下し、急に大会に出るハードルが低くなった、というのが主要因である。
初めてのポケカのジムバトルはドキドキで、3戦やって1勝2敗。ここからポケカにめちゃくちゃのめり込むことになる最初のスタートとして文句ないものだった。
使用したデッキは、『青ロストデッキ』と言われる型のデッキで、当時のTier3デッキ。Tier2以上の3デッキは高かったのと、デッキの主要ギミックが自分にとって好きだったのが要因として大きい。なんとなくで握ったデッキだったが、結局この年、次のレギュレーション変更のある2025年1月まで丸1年青ロストと共にするのだから、ある種の運命だったのだろう。
ポケモンサークルでは僕が大学1年の頃からほそぼそとポケカが行われており、僕もそこで楽しんでいたのだが、大学2年の学祭のタイミングでポケサー内でポケカがブレイク。このころには仲間と切磋琢磨する環境が揃っており、ポケカを本格始動する時期としてすごく優れていた。
最後の大きな変化は、家を変えたことだ。
これまで住んでいたのは、ドーミーという、あのドーミーインを運営する会社が運営する民間学生寮。食事が付いているなどいい点は多くあったのだが、自分で自炊したいという欲求が出てきたことや、寮という生活の中に一定他人が入り込まざるを得ない環境に少々ストレスを感じて来たことが大きい。

大学、そして勤め先に行きやすいことは第一条件だった。
大学は最悪雨で行けなくてもいいが、勤め先には雨でも行かなければいけない。自転車である程度通勤通学がしやすいところでありたい。
だいたいの東北大生が住む地区は写真の通り(地区の名前はある程度東北大学生になら通じるであろう範囲の、僕のオリジナル)で、片平と川内の坂の上は自転車が使いにくく、榴ヶ岡まで行くと大学に自転車で行くのが億劫になってくる。かといって文系東北大生の大半が住む八幡地区は、雨の日の職場が行けなさすぎる。
などと四苦八苦した結果、もともとドーミーで住んでいた上杉地区の柏木側から、柏木地区の上杉地区側へと、ほとんど全く移動しない選択肢に落ち着くこととなる。
たとえば西公園地区は迷った立地の1つだが、スーパーがなかなか無いエリアなことに加え、地価が高いためボツになった。
柏木地区の上杉側にした理由として大きいのは、
・自転車でなんでも完結できる
・大学,職場までどちらも自転車で20分ほど
・スーパーに近く、また商店街エリア(西公園地区の仙台駅側)に行きやすい
・新しいカテキョ先が上杉地区で、離れたくなかった
・星陵キャンパス(東北大学病院)にある大学図書館が自習室として使いやすかった
などだろう。ここらへん、本当に住みやすいのに全然東北大生が居なくて寂しかったので、東北大生で家探しをしている人は是非検討してほしい。
ちなみに、ついこの前、自分が住んでいた家の前にクマが鎮座する映像がTwitterで流れてきた気がするが、それは見なかったことにする。
まぁ何はともあれ、1,2月だけで既に激動である。やはり激動というのはそれなりに気持ちのいいもので、毎日予定に追われているのはワクワクする。
②プリント作成に追われる日々、と思ったら札幌レッツゴー!!
プリント作成とはなにぶん時間がかかるものだ。基本的には過去問から取ってくるわけだが、適当に過去問を持ってくればそれでいいわけではない。今日の趣旨、全体のカリキュラム・流れを配慮して、ある程度こういう問題が欲しいな、という見当を付けながら問題を探すわけだが、じゃあ例えば、
・旅人算の複数人の問題
・円周上の旅人算みたいな問題で、なるべく周期が登場してほしい
・偏差値60周辺から見つけたい、開成や武蔵は難しすぎる
・せっかくプリントに載せるからには何かしら示唆のあるものでありたい
などと見当をつけたとして、じゃあ今から捜索開始だ!と思っても、四谷過去問データベースを片っ端からたたくしかない。
ある程度、行きつけのサイトみたいなのも駆使したが、A4表裏2枚・計4面のプリントを作るのに6時間くらいかかるなんてザラだったのを覚えている。
毎週二種類のプリントを作成し、その週の予習シリーズ・演習問題集の全問題に目を通し、授業準備をしっかり練ってから授業に向かう。これだけで相当、毎週時間を取られていた。
ただ、辛かったかと言われれば全くウソになる。やりたくてやっているのであって、誰からもやらされていない。むしろこの権利を奪われる方が辛いし、それはもう毎週楽しみながらやっていた。
僕の指導の一番核にあるのは、『徹底して生徒の夢・志望校に寄り添うこと』。確かに無茶な目標を掲げてる子はいたし、色々思うことはあったが、それにこちらが意見するのは違う。それこそ自分が、偏差値40代で開成行きたいって言い出す無茶な生徒だったわけだし、当時『この成績から開成は無理です』って保護者面談で言って来た先生は軒並み全員死ぬほど恨んでいたので、当然と言えば当然である。無茶な目標だとしても、その目標達成のために全力を尽くすのがこちらの役目だ。
一方で、志望理由があいまいな生徒には徹底して情報提供然り、志望理由がはっきりするまで詰めていった。文化祭に行ったことがないなら行った方がいいし、校舎を一回も見たことが無いなんてとんでもない。仙台というただでさえ遠い場所からの受験だからこそ、雲の上の存在ではなく、その学校にしっかり生身で触れてほしかった。
生徒たちの成績は極めて順調。もちろん全員の成績がすべて著しくいいなんてそんなことは無いが、少なくとも5月までは、それぞれの出来る出来ないは要因がはっきりしており、どうやって成績を上げればいいかもまたハッキリしていた。ただ一点、クラスが非常にうるさい、という大問題はあっても、毎週楽しくやっていたことに変わりはない。
春休みのうちに基盤を築き、新学期に突入する頃には余裕が出て来たところで、ポケカのマイページから通知が来る。
『チャンピオンズリーグ札幌 当選』
ポケカの世界には様々大会があるが、そのうち世界大会まで続くいわゆるガチ勢の大会たちを、チャンピオンシップシリーズという。
年4回参加権があり、毎週末各地域で開催する『シティリーグ』
年5回、全国各地で開催され、日本一を決める『チャンピオンズリーグ(CL)』
年のラストに開催し、今年度の日本最強を決める『ジャパンチャンピオンシップス(JCS)』
このうちシティリーグについてはまぁちゃんと応募すれば年4回しっかり出れるのだが、JCSは、シティリーグやCLでの上位入賞者に参加権が与えられ、CLについては抽選になる。
僕はCLに出たいという思いはありつつ、殆ど必ず土曜と重なる(土曜は塾講師が外せない)のが大きなネックになっていたし、たまたま土曜を外れていたとして抽選に当たるか分からないという、ダブルパンチとなっていた。
しかし、GWに開催予定だったCL札幌は土曜を外れており、またわざわざGWの札幌に乗り込める奴なんて多くない、という都合で抽選倍率が低く、当選することが出来たわけだ。
即座に仙台-札幌便を抑えたうえで、札幌に住んでいる北大の先輩に泊めてくれと懇願。札幌行きが決定する。
そうと決まれば練習しかない。毎週ポケサー仲間に付き合ってもらったり、カードショップの大会に参加したり。それなりに強くなって札幌入りし、前日に札幌で参加したカードショップの大会では最終戦負けの3勝1敗で2位とそれなりの成績で、札幌ドームへと突撃した。
結果は2勝3敗で敗退(Day1は9戦やって7勝2敗以上でDay2進出となるが、3敗した時点で敗退となる)。
強いアタッカーではなく、相手に強い動きをさせない妨害カードを駆使して戦う『コントロールデッキ』と言われるデッキタイプが苦手なのはわかっていたのだが、シェア率が5%も無いため切っていたら、2回あたって2敗して負けた。
このCLで誇れることがあるとすれば、いまやポケカの有名プレイヤーで5本の指には入るヤマグチヨシユキ選手とあたり、勝ったことだろう。デッキ相性がいいのもあったし、運も良かったかもしれないが、勝ちは勝ち。プレイヤーとしての自信を得ることが出来た。
この6月から仙台ポケカ民の強い味方、『ポケ堂 仙台店』が仙台駅前の現在の位置で再オープンしたことも、ここから僕がポケカに激ハマりする1つの要素となる。10月くらいまでは毎日14:00から自主大会を開いていたことで、
2限まで大学(~12:00)
→昼食
→ポケ堂自主大会(14:00~15:45)
→バイト(16:15頃~)
という黄金ルートが誕生することになる。当時はポケ堂自主大会に来る人も多かったので、本当に素晴らしかった。
ちなみに、稼いでもいたはずだし何故かは全然わからないのだが、当時本当にお金が無く、国民健康保険の支払い着服(毎月1日に残高が1万7千円を割っていると引き落としが1か月遅れることを悪用し、クレカがヤバい時は30日に一旦口座から全てのお金を現金に引き上げ、2日に再度入れること)を繰り返していた。この裏技は2か月滞納するともれなく未入金扱いになるので、連続は1回に留めることをオススメする。
日曜に1日ベガルタ関連(J2サッカー)の単発バイトを入れて小金を稼ぐみたいなこともやっていたのに、そんなに金を使った記憶も無いのでもう何が何だかである。
そうそう、3年生といえばゼミがはじまるが、僕のゼミ選びはちょっと特殊だった。
というのも、明確にやりたいこととして『教育経済』があったのだが、それをまともに専門として取り扱っている教授はいなかったのである。
教育経済学は凄く定義が広いが、包括すれば「教育にかかわる人の動き全般を見る学問」である。そもそも経済学、というもの自体が決してお金の動きを見るものではなく、人の選好(取捨選択)すべてを考えるものであるわけで、教育という営み全般はこじつけによっては全てこれにあてはまってしまうわけだ。
直感的にわかりやすい、「教育の投資効果」みたいなことから、「私立と公立、どちらがいいか」、「成績とテレビの視聴時間の相関」みたなことまで教育経済であり、まぁすごくざっくり言えば定量的な数字を使って何かを判断し始めたらそれは教育社会学ではなく教育経済学の分野である。その数字がお金でも、テストの点数でも、だ。
日本でこの教育経済学をまともに扱っている研究者は凄く少ない。教育経済学は欧米圏がその最先端で、日本ではResearchmupで”教育経済学”と打つと14人しか出てこないくらいには本当に少ない。教育学(というと基本的に日本では教育社会学にはなるがだいぶその境界はあいまい)を専門にしているひとがこっち側に足を踏み出していることはあるので、それが先行研究になることもあるが基本的にはアメリカを参考にした方がいい。その理由はいろいろあるだろうが、一番は日本人が潜在的に教育を科学にすることへの忌避感を持っているからだろう。ただし、日本で一番有名な社会経済学者といっても過言ではない『中室牧子』さんが教育経済学の第一人者であるわけで、そんなに社会から縁遠い学問でもないとはおもっている。
そういうことで、専門がいない中で頭を切り替えたのは、そういうことをなんとなくさせてくれそうなゼミかどうか、である。要するに自由な研究室だ。それでいて、金融論とか会計学みたいな凄く遠いところでもなく、マクロ経済かミクロ経済かそこらへん、といったらもうだいたい絞れていた。
③夏休み、地獄であり天国でもある怒涛の日々の幕開け
夏休み、といえばもちろんはじめにくるのは水泳学校である。
当たり前だ。僕は大学4年間、7日×4年=28日のうち、25日に参加している。
ただ、この年は少しイレギュラーであり、夏期講習の開始が凄く早かったので水泳学校前に少しだけ夏期講習がある構図になった。
夏期講習をして、館山行って中一を教えたと思ったらまた帰ってきて、受験生を教える。忙しいは忙しいが、なんとも幸せな時間を堪能していた。7/20から8/8の20日間で17日、塾か水泳学校にいる。こんな素晴らしいことはない。
ちなみに、こいつは期末とか無いのか、とか突っ込みが飛んできそうだが、安心してほしい。3年生にもなると”わかって”くるので、あらかじめ期末の日程を調べ、水泳学校や夏期講習と被りそうならもうその授業を受けないし、基本的には平常点で成績が決まる授業で埋めている。
予定に合わせて水泳学校や夏期講習を調整する?そんなのもっての他。出来る男は、水泳学校や夏期講習に合わせて履修科目を調整するのである。
まぁそんなことを言い出すと、塾や水泳部に何かしらの飛び火をしかねないので、再三申し上げると、これは僕がおかしい側面は絶対にある。あくまで自分の意思で、こうしたいからこうしているし、誰からも強制はされていない。
それはそうと、前年まで午前か午後だけだった塾の夏期講習は、この年から終日になった。僕のいた塾の場合、小4,5の授業が午前か午後かに寄せられ、もう片一方で小6の授業をやるため、小6を持つようになった=午前も午後もになった、とも捉えられるが、もう一つ要因はある(理由がそれなら、授業コマ数的に昼の数時間だけで良い)。
それは、過去問演習の採点をするようになったことだ。
普通、過去問を解いた後、国語の記述など生徒個人で採点が難しいところは塾に提出をし、採点をしてもらうのが通例である。開成などであれば4教科とも提出していいくらいである。この年の僕のいた塾では僕の方針で、全員夏期講習の間に第一志望の1年分の過去問を解くことにしていたのだが、併せて、解き終わったら全教科分の提出を求めた。
もちろん記述は全採点するし、4教科の得点・失点傾向を全て把握して、様々コメントを書いて返す。パソコンで書くと逆に面倒くさいのでA4の2,3枚手書きでコメントを付けていたと思うが、別にこれも誰からも強制されてはいない。あくまで僕の方針である。
というか、そうでもしないと受からないだろう、というのが見立てであった。志望校対策のコースが充実していて、過去問に留まらない演習が出来る都内と違い、志望校対策の授業を一切開講することの出来ない仙台では、過去問の10年分が唯一その学校っぽい問題演習が出来る機会だ。演習量が十分でないのは分かり切っていて、その学校の傾向を知り切る前に10年分が尽きてしまう。それを回避するためには、徹底して過去問演習の1年あたりの質を高めると共に、なるべく早期に学校の傾向と自身の強化ポイントを把握してもらい、それを常に念頭において平時から問題演習に取り組んでもらうしかない。
それっぽい問題を用意できないなら、早期に”それっぽい”の感度を彼ら自身に高めてもらい、彼ら自身でそれっぽい問題を見繕ってもらうしかない、と、そういうことである。

これは、夏期講習開始時に渡した、10年分の算数の出題傾向をまとめたものである。これは2024年当時だし、だいぶ急ピッチで進めたので今思うと難易度表記などは直したいところがたくさんだが、まぁ配った意図としてもそんな厳密なものは求めていないので良しとしよう。(2025年にはまた大きく改定が入る)
意図としては、難易度と出題傾向をある一定相対化させ、問題を解きながら、そういう目で見てもらうこと。具体的には、過去問演習のときには、終わった後それぞれの問題の難易度を照らし合わせ、ある一定の難易をその場で把握すること。一方で各授業のときには、テキスト記載or僕がその場でいう難易度評価を参考に、『これくらいの難易度の問題は解けないといけないんだな』というある程度の物差しを作ってもらうこと。
これらが首都圏で必要とは全く思わない。首都圏では各志望校別の講座でとことん”それっぽい”問題の演習や、各学校の傾向が告げられ、周りには同じ学校を目指すやつがいっぱいいるからある程度相対化される。
一方でここは仙台だ。同じ学校を目指す奴なんて2人いれば多い方だし、そういうことで志望校特訓もない。欠けているものが多すぎる中で目指すのであれば、多少属人的になれど、多少パワープレイになれど、やるしかない。
自分でも完璧だったかと言われればそんなことは無いと思うし、ダメ出しを喰らう余地はいくらでもあると思うが、当時はこれが出来る中での最善だと思ってやっていたとしか言わざるを得ない。というか、それくらい、地方になると何もないということである。僕が入る、この前年までは、四谷netに配給されるベーシックインカムをただ履行するのみであり、それ以上のインフラが何もなかったので、こうするのが精いっぱいだった。
一方で、別に塾を責める気にもならない。当時は色々思っていたが、ある程度相対化された今見ると、首都圏と同じ水準を求めるのが間違い過ぎている。ただ、僕が異常値であっただけで、たまたまバイトで変な奴が入ってきたくらいの認識で良い。
もしこの読者にいわゆる地方(3大都市圏でない場所、という意味)から首都圏を目指す人がいるなら、ある程度そういうものだと割り切った上で、バイトだとしても僕みたいな異常値が居るところを何とか探すしかしょうがない。規模の経済が働かない以上、経営判断で言えば切り捨てて当然で、もし地方でそこらへんが充実している塾があるなら、誰かしらがとんでもない量の残業をすることで辛うじて成り立っている、くらいに思った方がいい。
むしろそれに対して怒る親(僕が担当だった時も一定いた)がいるなら、自分の傲慢さを思い知った方がいい。
『同じ金を払っているんだから同じサービスを提供しろ』??????
冗談じゃない。確かにお前は二華を目指す生徒の親と同じくらい金を払っているかもしれないし、もしかしたら奮発して首都圏の親と同じくらい金を払っているかもしれない。一方で立場を変えてみれば、いくらお前が100万出そうが200万だそうが、東京は同じ志望校の生徒だけで毎年100人は居る世界である。1人50万払ったとして5000万だ。
教材準備だとか、そういう生徒数の多寡によらない費用がどれだけかかると思っているんだ。
まぁ少々アツくなったが、一方で、僕はその理不尽がなんとも許せなかったのはこれまた事実である。なんとか1段でも上に行って、なるべく土俵の高さの同じ位置で試合をさせてあげたかった。
自分の方針で4教科提出させることにしたが、自分以上に首都圏の採点が出来る人もいないのも事実だった。自分で自分の首を絞めているが、国語の採点を学び、公開情報を調べ、自分が思う首都圏はこうあるはずだ、この学校はたぶんこういう採点のはずだ、といった感性を組み合わせて日々採点していた。
そうするともちろん、一日何時間も採点に使うわけで、もちろんひどい働き方になるわけである。
それもこれも自分の判断である。どうしても受からせたかったから、頑張った。ただそれだけのことで、むしろそれだけやらせてくれた塾に感謝である。
お盆の時期には合宿とやらにも参加した。自分が小学生の時には自分の塾にはそんなものなかったので凄く新鮮。会社の都合でなぜか僕は泊まりでなく通いになったので、早朝に仙台を出て、深夜に帰ってくる限界生活だったが、それでも楽しかった。
一方で、私生活もそれなりに楽しんでいたのもそうである。さっき、20日のうち17日は塾か水泳学校にいたと言ったが、空いてる3日のうち2日はポケカの大会に出ているし、お盆休みもほぼほぼポケカをしていた。
夏休みの後半には塾もなかったので、鉄研同期の8人と共に日本海側を8泊9日で回ったし、久しぶりの鉄研式旅行はなかなかいいものがあった。
ときは巻き戻るが、大学2年の学祭であるサークルと出会う。『Retern 0;』。わかりやすく言えば、東北大学謎解きサークルである。いわゆる謎解き興行を愛し、みんなで行き、みんなで作る。そういうサークルである。学祭のときにこのサークルに出会い感動して、そのときからサークルに所属していた。
2024年の夏、このサークルの10周年を祝う講演が開かれ、ここで初めて仕事を請け負う。ポスターを作る(業界用語?でビジュを作るという)仕事だ。

あのくそ忙しい中どこにこんなものを作る余裕があったのかはよくわからないが、まぁそうするとこういう手抜きビジュも出来上がる。見る人が見れば、ああ簡単なつくりだな、と思うし、ただそれなりにちゃんと作った感もある。
ちなみにこのビジュはだいぶ依頼に沿ったもので、コメディタッチのギャグ寄りに作ってくれと言われたし、その他講演趣旨にも沿ったものだ。それなりにいいビジュであったと思う。
この10周年イベントでは、イベントの一環として川内萩ホール(大学構内にあるホールで、国際会議なども行われる)を2日間貸切っており、これだけでざっと100万円くらいかかっている。大赤字であり意味が分からないが、その裏側に入れたのは心底いい経験であった。

さて、忙しかった8月が終わり、9月は割と穏やかにもなった。予定していたサピックスのインターンにも行き、秋募集に向けてそれなりに就活も始めたくらいだったと思う。インターンでサピの先生に模擬授業をみてもらい、絶賛して頂けたのはすごく自信になった。自分にとってサピの授業は憧れであり、自分の小学生の時に眺めたあの授業を自分なりにアレンジして再現しようとずっと頑張っていたので、何よりの勲章である。
④進路決定!一方で生徒の進路には暗雲が…
10月に入ってまず訪れた大きなイベントは学祭だ。
学祭で行った僕の役割は大きく2つ。謎解きサークルにおけるポスター制作と、ポケモンサークルにおける学祭責任者である。
軽い方から行こう。謎解きサークルでは、へそくり大作戦に続き学祭でもポスタービジュアルを担当することになる。ただ、結論から言うと、ポスタービジュアルは完成までもって言ったうえで中止になっている。8月の10周年記念イベントから2か月での学祭はなかなか制作スケジュールがハードであり、当初予定されていた3講演のうち1講演のみ開催に決定。残り2講演のうち1講演は11月のイベントに回されたのだが、最後の1つはついに行うことが無く、その講演の担当であった僕のビジュアルは使われずに終わることになった。
せっかくなのでここで供養しておこうと思う。

へそくりと比べると作業工程はめちゃくちゃ増えているし、それなりの力作だ。
一方、ポケモンサークルでは学祭責任者を務めることになっていた。
元々開成時代にそれはそれは文化祭に熱を注いでいた副作用というか、病気というか、やはり学祭になると一過言あり、大っぴらには言わずとも同期の身内には結構、学祭運営全体への不満や、ポケモンサークルの出し物をもっとこうした方がいい、みたいなことを言ってしまっていた。そうしたところ、ポケサー同期から、『じゃあお前に任せた』とのこと。全体の企画全般を引き受けてしまったわけだ。
それまでのポケモンサークルの出し物に僕が感じる不満は以下の通り。
①ポケカではスタートデッキくらいしかまともに貸し出せるものがなく、当時のポケカの醍醐味である大怪獣バトルが全然楽しめない。ガチ対戦は客に自分のデッキを持ってきてもらうありきになってしまっている。
②ゲームでは辛うじてガチ対戦パーティの貸し出しはあるものの、こっちは逆にガチすぎて少しゲームかじったくらいの人にとって楽しめない。
③ただ常設展示があるだけでイベントがなく、企画が単調。
これを解決する手段として、①~③に対応する施策をうつ。
①環境トップデッキをある程度(6種類くらい)揃えたうえで、スタートデッキをそれなりに強くなるくらいに勝手に改造。ガチ-初心者ではなく、ガチ-ルールは分かる-初心者の3段階に出来るように。
②1000匹の全ポケモンを育成。その場で自分の好みの6匹を選んで対戦が出来るコーナーを新設。
③土曜日にポケカ、日曜日にゲームの自主大会を開催。景品で参加者へのインセンティブを付けるとともに、実況解説を付けて会場のお客さんも楽しめるように。
どの施策も、結局のところはポケモンのガチ環境に現在足を踏み入れていない人に一人でも多く足を踏み入れてもらうことを目的にしている。ポケモン昔はやっていたけど今は離れちゃってるという人、ガチ対戦面白そうで一歩を踏み出したいと思っている人。これらにとっての導線になり得る最大限を考えたつもりである。
ちなみに僕は当日は、塾講師で培った口を活かして、司会進行兼実況役をやっていた。2日間朝から晩まで喋っていて本当に疲れたが、反響も大きかったし、達成感はそれは凄いものがあった。
こうして学祭は無事終わるわけだが、一方で塾では少々問題が山積していた。
個人情報も混じるので詳細を言うのは控えるが、今まで順調だった生徒たちがここらへんでガクッと成績が落ちてしまったり、進路関係で親と生徒が揉めたり、僕が小6に突っ込み過ぎた結果小5との信頼関係が薄れてきてしまったり、、
正直、学祭の最中も結構こっちのことを考えていた。
これまでは保護者面談は、先に決まっている議題に対して僕が方針を決め、T先生が代弁して交渉役となるスタイルを取っていたが、そんな悠長なことが出来る状態でもなくなりつつあったため、このころから信頼関係が出来ている保護者との面談には入るようになる。
重ねて問題となったのは、ちょうど秋採用・冬インターンの面接が立て続けに入る時期で、僕自身のスケジュールもめちゃくちゃタイトになっていたことである。
それこそ、現在の勤め先である就職の第一志望の面接は、第3次面接・最終面接ともに志望校決定の保護者面談の日であり、面接の直前3分前に、全然面接と関係ない保護者面談のレジュメを作成していたりしていたので、本当になんで受かったのかよくわからない。
ただ、そのエピソードが物語る通り、当時の僕の基本スタンスは『生徒の一大事において自分の予定はないがしろにして然るべき』であり、もちろん就活をキャンセルまではせずとも、就活よりよっぽど塾を優先する生活であった。
解決法については色々考えたが、一貫して言えるのは『対話に拘った』ことだ。生徒、親など、それぞれと1対1で話す機会をなるべく多く作り、相手の表面的な意見の核にある本当の問いにしっかりと訴求する。
元々小6相手の個人面談などは多かったが、スケジュールを組んだり特別呼び出すだけでなく、あくまで雑談ベースに毎日授業の始まる1時間前から1時間後は色んな生徒と徹底して話し合う、そして意識的に1か月以内に1周はするような習慣を作ったことは、この翌年にも関わるいい習慣であったと思う。
先ほど少しだけ触れてスルーしたが、塾の片手間で行っていた就活が無事終了した。
第一志望にしていた、現在の就職先に無事合格。日系コンサルティング会社だが、文化に惚れたことに加えて、塾で行っていた『生徒の志望校・やりたいことを全力で汲み、その未来に向けてロードマップを一緒に作って、実行まで徹底してサポートすること』とコンサル(特に弊社)の相性が凄く良かったことが最終的な決め手になった。
特に対策をした覚えもなければ、面接中も心ここにあらず。それでも合格することが出来たのは、それこそ本当に相性が良かったのだろう。
⑤受験の冬へ
いよいよ受験もクライマックス。10月頃に危機的だった生徒の成績は、冬休みが近づく中で復調していた。その中で自分が取り組んでいたのは、『各第一志望校用の対策プリントの作成』である。
先述の通り、首都圏との大きな違いは日曜志望校別特訓が出来ないこと。それを解決できなくとも差を埋めるために頑張っていたわけだが、1回くらい模擬試験を作ってやりたいなと思ったわけである。
過去10年分の傾向を踏まえ、それとなるべく傾向は似せること。出題サイクル等も考えたうえで難易度を近づけ、最後の方の問題が少し難しいくらいになんとか留めること。そういったことを意識しながら、基本的には過去問(その学校以外を出典)から、どうしても出題したい題材が過去問に見当たらない場合は多少自作して、計8校分を作成した。
クリスマス周辺とかは生徒の過去問提出もピークに近かったため本当に死ぬかと思いながら作成していた。もちろん彼女はいない。大勢の生徒と過ごしていた方がよっぽど幸せである。
1月中旬。集団授業のカリキュラムが終わっていく中で、受験直前の生徒2人から、同グループの個別部門で直前までの短い期間やりたいと申し出があったのだが、内容が過去問演習であり、それも最上位層。色々個別部門とも協議を重ね、僕からも希望をした結果、僕が個別部門に出張して授業を行うことになる。
他に出来る先生もいないだろうと確信があったし、何より最後までその子たちの責任を持ちたかった気持ちが大きい。
ただ、自分で希望してとはいえ、その日々は半月ぶり、いやそれ以上に死にそうになっていた。ただでさえ上期に水泳学校を理由に単位を少なく取っていた中、1月中旬から1月最終週にかけてが期末試験。さすがにあんまり日常勉強はしていなかったため基本的に一夜漬け。それに加えて引き受けた個別の授業は毎日3コマとかその域である。(向こうも学校を休んでいたためその代わり的側面もあり、コマ数が増えた。)
家庭教師の先からも授業のコマ数を増やす要請が来ていたため、たまたま試験が無い日も午前中からカテキョ先にいたり。
試験を1から3限めで熟し、終わったらすぐに塾に直行。授業を3つ消化し、帰ってきたら翌日の授業の予習とテストの一夜漬け。1時間だけ寝てテストに向かう。そんな日々だ。文字通り教育に捧げる日々だったと思う。
そうこうしているうちに本番である。2月1日は朝に、数人だが生徒と会ったり。
遂に結果は、
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振るわなかった、といった方が正しい表現だろう。
親の第一志望校と子供の第一志望が違ったケースは軒並み、『もし子の第一志望が通った場合はそっちを優先させてあげてください』で通していたのだが、親の第一志望のみが満たされ、子どもの第一志望が満たされないケースが凄く多かった。また、親は第三志望くらいまでのどこかに受かってくれれば、一方で子供は第一志望校しか見ていない、みたいなケースも多かった。
誰一人、親からクレームが来ることはない。12人の親全員が、清々しい表情をしていた。
一方で、過半数の生徒が決して清々しいとは言えない表情をしていた、その表情が今でも忘れられず脳裏にこびりついている。
果たしてこんな結果になるなんて、一切の想像をしていない結果であった。
もちろん中学受験はこんなもの。第一志望校に受かる確率なんて30%と言われる、厳しい世界である。
僕自身がその想像をしないようにしていたのもある。『受からないと思って臨んだ奴が受かるわけがない。受かると思って臨んで初めて土俵に立てる』。これは1年を通して、言い方を少しずつ変えながらも一貫して言っていたこと。自分も心から全員が受かると思って臨むことを意識していた。
一方で、成績的・判定的にもこんなに落ちるはずではなかった。
塾としては大成功なのだろう。でも、僕はそうは全く思えなかった。
そうしてあのブログに繋がる。
auspicious-wind-villa.hatenablog.com
果たして、接し方が本当にわからない。
3月中旬くらいまで、全く立ち直れない日々が続いた。
3月中旬のある日、最後まで個別でも持っていた生徒がふと、うちの塾に来た。
『○○(僕の本名)先生いますか』
『○○先生。△△(彼の第一志望校)生と、戦える模試ありませんか』
狐につままれた思いだった。
『戦って、絶対に次は勝ちます。受験には落ちちゃったけど、受かる実力はあったこと、次は証明します』
『いやぁ、受かりたかったっすねぇ』
そういって明後日の方向を見る彼の顔は、全く後ろ向きなものでは無く、くやしさが入り混じる中に、精一杯全力の勝負が出来たことの清々しさと、輝きを放っていた。
⑥6年生を持つということ(総括)
僕は6年生を持ったこの一年で、2つ、大きく気づいたことがある。
まず1つ。6年生を持つということは、決して生半可な覚悟では出来ないことだ。よく、『生徒にとっては一世一代の大勝負でも、塾の先生にとっては日常の一幕』なんて言ったりする。それは特に社員にとって一面正しいと思うが、それで生徒が受かると思ったら大間違いである。
特に小学生においては、こちらがいくら演技で着飾ろうと、その熱意は確実に生徒に伝わる。こちらが熱意を持っていれば、やる気のなかった生徒にやる気を持たせることだってできるし、より熱意を引き上げることも出来る。一方で、熱意を持っていなければ、生徒はどこまででも堕落していく。いくら説教したって、正論言ったって、通じるわけがない。小学6年生はそこまで理性的な人間ではない。
ただ厳しいだけではない。心から受験を楽しみ、未来が明るいと思い、生徒の合格を熱望し、そのために努力を惜しまない。そうすれば自然に生徒も受験を楽しみ、その楽しみのまま活力を持って勉強に励む。少なくともこの年の11人、いや、さき取りするが翌年のメンバーを含めても、全員に全く同じことが言える。せいぜいn=30とかかもしれないが、僕は僕自身に向けてそれを証明することが出来た。
そしてもう1つ。受験は合否がすべてではないと言うことだ。憧れの学校に向けて全力で準備をし、全力で勝負を挑んだ。結果は落ちたかもしれないが、その過程に狂いはない。むしろその過程にこそ意味があるのだと、この1年の生徒、特にその彼によって、はじめて心から気付いた。
仙台という、ともすれば『東京に住んでたら受かったのに』と思っても仕方のない環境で、全力で勝負が出来たと思わせられたこと。悔しいと思わせられたこと。これだけでもう、1つの意味では成功したと言っていいだろう。
この敗北は凄く自分の中で悔しい思い出だ。一生引きずるだろう。一方で、その誇りも一生忘れないものになった。
全力で戦ったからこそ価値がある。彼らによってそれに気づき、彼らと一緒に自分も戦うことができた。
何よりの財産である。
それでは次の記事で。